ヨーロッパの歴史

金融の力でヨーロッパを動かしたユダヤ人出身の名門「ロスチャイルド家」を元予備校講師がわかりやすく解説

マイヤーの死とロスチャイルドの五本の矢

ナポレオン戦争の最中にあたる1812年、家長のマイヤーがこの世を去りました。マイヤーは五つの家訓を残します。

一つ目は、ロートシルト銀行の重役は一族で独占すること、二つ目は、事業参加は男子の相続人に限ること、三つ目は、本家も分家も、原則長男が相続すること、四つ目は、婚姻は一族内で行うこと、五つ目は、事業内容を秘密にすることでした。

マイヤーは一族の強い団結により不安定な情勢やユダヤ人の迫害を切り抜けることを期待したのでしょう。マイヤーの5人の息子は各地の拠点を相続します。

長男のアムシェルはフランクフルトの本店に、次男のザロモンがウィーンに、三男のネイサンはロンドンに、四男のカールはイタリアのナポリに、そして五男ジェームズはパリに住みました。

ナポレオン戦争後はオーストリア帝国の宰相メッテルニヒに接近。ロスチャイルド一族の全員がオーストリアのハプスブルク家から男爵位と5本の矢をデザインした紋章を授かりました。

ロスチャイルド家の縮小と現在

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ウィーン体制が崩壊し、ヨーロッパが再び激動の時代を迎えた19世紀後半、ロスチャイルド家のドイツ系とイタリア系は衰退期に入ります。その一方で、ロンドンとパリの両家は繁栄を続けていました。第一次世界大戦後、ロンドン家は当主の相次ぐ死などによる相続税で衰退します。また、ヒトラーが台頭することでユダヤ人の財閥であるロスチャイルド家は格好の標的となりました。第二次世界大戦後、生き残ったロンドン家とパリ家が再統合し、ロスチャイルド家は現在まで存続しています。

ドイツ・イタリア系の衰退

19世紀後半、ドイツはオーストリアとプロイセンのどちらがドイツ統一の主導権を握るかで争っていました。1866年、プロイセンとオーストリアが真正面からぶつかる普墺戦争が勃発します。戦いはプロイセン軍の圧勝でした。

ドイツ統一の主導権はプロイセンが握ることになり、ドイツの中心はベルリンへと移ります。しかし、フランクフルトのロスチャイルド家はベルリンに進出せず衰退。

ウィーン家は19世紀後半から20世紀初頭にかけておきたハプスブルク家の没落に準じて衰退してしまいました。

ナポリ家も家運が振るわず衰えます。マイヤーとその息子たちが築いてきたロスチャイルド家は家族が協力することで家の力を維持していましたが、全体としての衰退を止めることはできませんでした

ロシア帝国と敵対したロスチャイルド家

19世紀後半、ロシア帝国では帝国政府とロシア正教会によるユダヤ人は迫害が激しさを増していました。これに反発したロスチャイルド家はクリミア戦争で反ロシアとして戦ったイギリス・フランスなどの軍事費を調達します。さらにオスマン帝国にも巨額の資金を貸し付け、ロシアと戦えるようにしました。

1904年、日露戦争が始まると日本は戦費調達のためアメリカやヨーロッパに銀行家や外交官を派遣します。この時、ユダヤ人実業家のジェイコブ=シフが多額の戦時国債を引き受けました。

シフはロンドン家の当主であるナサニエル=ロスチャイルド男爵にロシアと戦う日本を支援するよう依頼。これに応えて、日本政府がロンドンやパリで募集した戦時国債にロスチャイルド家が協力することになりました。

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