秀吉との対決に敗れ…自害を選び、滅び去る
豊臣秀吉との対立はついに合戦となり、勝家は賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で秀吉と直接対決することになりました。当初は互角の戦いでしたが、味方の離脱により、勝家は北ノ庄城に逃げ、秀吉に包囲されてしまいます。最期を悟った勝家は、家臣たちに詫び、お市と共に炎の中に消えて行ったのでした。
秀吉との決戦「賤ヶ岳の戦い」
秀吉との緊張感は日に日に高まり、ついに天正11(1583)年、両者は賤ヶ岳の戦いで激突することとなりました。勝家軍には一門である猛将・佐久間盛政(さくまもりまさ)やその弟・柴田勝政(しばたかつまさ)、前田利家(まえだとしいえ)が参加しました。
激戦となった戦でしたが、ここで突然、前田利家が離脱してしまいます。利家は秀吉の親友でもありましたから、この関係で戦線を離れることを決めたのでしょう。
これがきっかけとなって勝家勢は総崩れとなり、勝家は北ノ庄城に退却します。しかしすぐに秀吉の軍勢が城を取り囲み、勝家の命運はもはや風前の灯となってしまいました。
力及ばず、お市と共に自害する
落城間近となり、勝家は覚悟を決めます。最後まで残った家臣たちに対し、彼は「離反した者たちを恨むことはない。ついてきてくれたお前たちも、生き延びて欲しい。もう自分が何も報いてやれないことを詫びたい」と言ったそうです。
また、たった6ヶ月の結婚生活を送ったお市に対しても脱出をすすめますが、お市はそれを拒み、三姉妹を脱出させたうえで勝家と運命を共にしたいと申し出ました。二度も夫に死に別れたくはなかったのかもしれませんが、同時に、勝家のこうした人柄に惚れていたのかもしれません。
そして、燃え落ちる北ノ庄城の中で勝家は切腹し、最期を遂げたのでした。
敗れ去っても魅力ある武将・柴田勝家
信長に謁見した宣教師・ルイス・フロイスには「信長の時代で最も勇猛な武将」と評価された勝家。自身は禅宗を信仰していたようですが、キリスト教の布教に関しては妨げることなく、「布教の成功は宣教師たち次第だ」と寛大な態度を見せ、人間としての器が大きいことを思わせる逸話もあります。しかし、彼は武将として有能でしたが、秀吉のような立ち回りの良さや狡猾さに欠けていたのでしょう。ただ、敗れ去ったとはいえ、彼の剛毅さは私たちを引きつける魅力が十分にあると思います。
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