信行の謀反を信長に密告
勝家はもう信行に加担することはありませんでした。信行がまたしても兄に対して謀反を考えていることを知った彼は、迷わず信長にそれを密告したのです。信長はそれを聞いて迷わず信行を殺害し、それから勝家は信長に仕えるようになったのでした。これが弘治3(1557)年のことで、勝家は信行の息子・津田信澄(つだのぶずみ)の養育を任されています。
信行のもとでは家老をつとめた勝家ですが、信長に仕えるようになったからといってすぐに家老になれるわけではありません。一度は反逆した身ですから、信用をゼロから積み上げなくてはなりませんでした。ここから、勝家は再出発を果たすことになるのです。
信頼を回復するために地道に尽くす
信長に仕えるようになった勝家ですが、やはり最初は100パーセントの信頼を置いてはもらえませんでした。大大名・今川義元(いまがわよしもと)を打ち倒し、信長の名を一気に高めた桶狭間(おけはざま)の戦いや、尾張統一の戦の数々などには、勝家は参加していません。
しかし、信長は身分の貴賤などにとらわれず、実力で家臣を評価する人物でした。当時としては、これは画期的なことだったのです。徐々に戦場に出るようになった勝家は、先鋒を任されることも増え、功績を挙げて徐々に重用されるようになっていきました。信頼を地道に積み上げてきたことが報われたというわけです。
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ついに筆頭家老の座に登りつめる
信長の勢いはすさまじいものだったとはいえ、反発も大きく、「信長包囲網」が形成されてピンチに追い込まれることもありました。戦に次ぐ戦の仲で、勝家は長島一向一揆では死地をくぐり抜け、比叡山の焼き討ちや姉川の戦い、長篠の戦いなど数々の大きな戦で次々と戦功を重ねていきました。
彼の勇猛さは衰えることはなく、敵に包囲されて水を断たれた時にも、わざと水を多く使ってみせ、水の入った瓶(かめ)を叩き割り、兵を奮起させたという逸話もあります。このことから、「瓶割り柴田」や「鬼柴田」の異名を取りました。
そして、天正4(1576)年には北陸方面の司令官を任されます。ここは一向一揆が90年も幅を利かせており、そばには上杉謙信も控えていたため、攻略するには相当の難所でした。
しかし勝家は見事に平定を成し遂げ、その大きな功績が信長に認められ、天正8(1580)年にはついに信長の筆頭家老に任命されたのでした。
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