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ユーラシア大陸を横断する世界最長の「シベリア鉄道」歴史や現在の様子を元予備校講師がわかりやすく解説

日露戦争の始まりとシベリア鉄道

日本政府が大津事件の対応で神経質になっていたのは、日本とロシアの関係が微妙なものとなっていたからです。ロシアは東アジアでの進出を本格化させようとしていました。シベリア鉄道の建設はロシアの東アジア進出を象徴する出来事だったのです。

ロシア帝国は弱体化した清王朝を北から圧迫。シベリア鉄道に連結させる東清鉄道の建設も認めさせました。日本はロシアの進出に対抗するためイギリスと日英同盟を締結します。ロシアの東アジア進出を快く思っていなかったアメリカも側面から日本を支援しました。

1904年、日露両国はついに戦争に突入します。日本は日本海海戦や奉天会戦で勝利しロシアとの戦いを優位に進めました。しかし、ロシアはシベリア鉄道をつかって次々と兵を増派します。そのため、日本はロシアを完全に追い詰めることができず、ポーツマス条約では賠償金をとることができませんでした。

現在のシベリア鉄道

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19世紀から20世紀前半にかけて、軍事的な色彩が強かったシベリア鉄道。現在でもその重要性は変わりません。シベリア鉄道はモンゴルのウランバートルや中国の北京を結ぶ路線とも連結した国際列車としても活躍中です。旅客・貨物・観光など様々な用途で活用されている現在のシベリア鉄道についてまとめましょう。

首都モスクワからウラジオストクを結ぶ「ロシア号」

全長9,000キロ以上に及ぶシベリア鉄道の西の始発駅はロシアの首都モスクワにあるヤロスラフスキー駅。この駅からシベリア鉄道の旅は始まります。モスクワから終点ウラジオストクまで走る列車は列車番号001/002番のロシア号。乗客が乗車時間は146時間で6泊7日の旅です。全線開通から10年以上を経た1916年段階では2週間の旅だったことを考えると列車の進歩が伺えますね。

客室は二人用の1等室と4人用の2等室の二種類で寝台もあります。食事は食堂車とることができますよ。

1992年、それまで緑色だった車体はロシア国旗と同じ青・白・赤の三色塗装に塗り替えられました。また、1993年から隔日での運行となったのでシベリア鉄道に乗りたいと思っている場合は事前にしっかりと調べておくべきでしょう。

ところで、シベリア鉄道には石炭ストーブが設置されています。これは、電気系統が故障しても暖房を継続できるようにとの考えがあるから。極寒のシベリアならではの配慮ですね。

バム鉄道と中露国際列車

シベリア鉄道には本線のほかにいくつかの支線や並行線があります。最も有名なのがバイカル=アムール鉄道、通称バム鉄道でしょう。バム鉄道はシベリア鉄道がイルクーツク州タイシェトで分岐し、バイカル湖西岸のプラーツクを経てバイカル湖を北に迂回する支線です。

バム鉄道はバイカル北岸から東進しサハリンの対岸を目指しました。ソビエト連邦時代は軍事用として用いられていましたが、ロシア連邦成立後は民間や外国人にも解放されます。

中露国際鉄道はシベリア鉄道から分かれたあと満州里、瀋陽を経由して北京にいたるルート。この区間を通るのがボストーク号です。ボストーク号は週一回の運行ですので、運航日の確認は必須ですね。

また、北京発のもう一つの列車(K3K4)は中国によって運行され、中国製の車両を使用し、乗員は中国人。こちらはモンゴルのウランバートルを経由してモスクワに向かいます。

シベリア鉄道の主要沿線都市

シベリア鉄道は長大な距離もさることながら、多くの都市を通過することでも知られます。モスクワを出発した列車は中央ロシアの大都市であるニジニノヴゴロドへ。この街はかつてゴーリキーと呼ばれていました。現在は自動車産業が盛んな街として知られます。城砦や古い教会など見所満載な街ですよ。

シベリア最大の都市といえばノボシビルスク。19世紀末に作られた新しい街で、最初はノボニコラエフスクという名でした。ロシア革命後、皇帝ニコライ2世を思い起こさせるとして都市名が新しいシベリアの街という意味のノボシビルスクと改名されます。

バイカル湖沿岸の街として知られるのがイルクーツク。美しい町並みで「シベリアのパリ」とよばれることもあります。

そして、最後に到着するのが終点ウラジオストク。ロシア極東の中心都市でロシア太平洋艦隊の重要な拠点です。そのため、ソビエト連邦時代は外国人に開放されていない街でした。現在は日本からの観光客も増加傾向です。

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