幕末日本の歴史江戸時代

常識を打ち破って日本を救った「阿部正弘」の政治を歴史好きが徹底解説

海外事情に長けた国内最大の敵の存在

国内が分裂してしまう要因に最もなりうる人物、それは水戸家の隠居、徳川斉昭でした。阿部自身も鎖国を守りたい気持ちはあったものの、戦争を避けるためにはアメリカの要求をある程度のまなければならないという覚悟を持っていました。そうした中で衝突するのが攘夷派の徳川斉昭です。彼はペリーが二度目の来航を果たしたとき、登城して将軍に開戦を決意させようと強い態度で求めるほどでした。

斉昭は周りとの摩擦をかえりみず大切だと思うことを実行するタイプで、ペリーの来航以前に幕閣によって失脚させられています。この幕閣の中には、もちろん阿部も含まれており、斉昭と幕府の関係は冷えきっていました。阿部が恐れていたのは、徳川斉昭のもとに攘夷派の志士が集まり、幕府に反旗を翻すことです。彼が内部分裂のきっかけを起こしうると考えた阿部は、一度は遠ざけた斉昭を抱え込むことを画策します。

敵を味方に変える阿部の政治手腕

そこで阿部は斉昭の謹慎処分を解除し、ペリー来航後に海岸防御御用掛という外交や国防に対応するための役職をつくり、そこの「海防参与」(トップを補助する立場)として斉昭を登用します。そして頻繁に書簡の往復を続け、斉昭の意見に耳を傾けました。

さらには、斉昭の第七男である慶喜を将軍候補に押し上げもしました。

こうして阿部は攘夷派のトップである斉昭を抱き込み、国内の内部分裂を防ぐことに成功します。

すべての人に危機を受け止めさせる!

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幕府と対立していた人物を反対に抱え込むという大胆な政策にうってでた阿部ですが、さらに前代未聞の方法に踏み切ります。

前代未聞の政策に打ってでた阿部正弘

ペリーの要求にどう対処するか、阿部は、アメリカフィルモア大統領の国書を日本語訳させたものを、それまで幕府政治への参加を許されなかった御三家や外様大名、旗本に開示して全国から意見を集めました。集まった意見書はなんと800通近く。自ら意見書を出した一般庶民もいました。

もともと阿部は積極的に情報公開をする人ではありませんでした。むしろ彼の政治のやり方は「内々」「隠密」とも言えるもので、表立ってことをすすめれば、その過程で様々な人間の思惑や利権が絡まり合うことを知っていた彼は、必要以上に情報を出さずに水面下で物事を進め、ある日突発的に沙汰を公布するというところがありました。

そんな阿部が、黒船来航の危機に際しては、自らの政治信条を変えて、多くの人に意見を求めたのです。これは挙国一致で日本の危機に当たるという、幕府始まって以来の画期的な方針でした。国の重要な政策について意見を聞くというこの行動は、後の公儀公論にもつながっていきます。

常人とは違う阿部の判断

阿部のようにアメリカ大統領の国書を広く公開するという行為は、従来の秘密主義が是とされていた幕府の政治ではあり得ないものでした。

阿部の非常に偉大な点は、知性の持ち主に対する弾圧をしなかったことです。水野忠邦は蕃社の獄という言論弾圧、井伊直弼は安政の大獄、この2つの弾圧では大変多くの知性が失われてしまいました。

日本でも外国でも、政権は追い込まれると言論封殺をして都合の悪い情報を隠そうとします。その点からすると、情報を隠さず、広く意見を聞こうとした阿部の政治手法は、当時の常識からは考えられない判断だったのです。

一弊を取り除く緻密な政治家・阿部正弘

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鎖国政策を捨てて開国を選んだ阿部の選択は、最悪の結果に転がれば、国内の分裂を招いて国の崩壊にもつながりかねないものでした。しかしそこで彼は、国内の様々な弊害を一つひとつ取り除きながら、利害を調整し、見事、国の崩壊どころか、一滴の血も流さずに開国を成し遂げます。阿部の政策は、歴史上に名を残すような派手さはなかったものの、現代社会でも必要とされる緻密さや確かさで、日本の歴史上最大の危機を回避させたのでした。

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