ヨーロッパの歴史

「パリ条約」は1763年?1883年?数あるパリ条約をわかりやすく解説

第一次パリ条約・フランス帝国vsヨーロッパ戦争の終結

フランス革命の後、弱り切ってしまったフランスを外国から守るべく戦い続けたはずのナポレオン軍。その結果、一時はヨーロッパの大半を征服するまでになりますが、そのためフランスは諸外国から反感を買うことに。この時、ナポレオンが指揮した戦争を総称して「ナポレオン戦争」と呼んでいます。

ナポレオンがフランス軍の司令官に抜擢された1796年当初のフランスは、まだフランス革命の混乱の中にありました。どんどん功績を上げ続けたナポレオンはフランスを窮地から救った英雄となり、1804年5月、ついには皇帝となります。

ナポレオンは強すぎました。その結果、ヨーロッパのほかの国々と対立することとなり、フランスはヨーロッパで絶大な力を持ちながらも孤立してしまいます。オーストリア、スウェーデン、イギリスなどの大軍に周囲を包囲され、ついには1814年3月、パリが陥落してしまうのです。

フランスは大敗。1814年5月30日、対立するヨーロッパ諸国との停戦協定がパリで行われることとなります。これが「1814年のパリ条約」です。

条約では、イギリス、ロシア、オーストリア、プロイセンとの間での戦闘締結が掲げられ、ポルトガルやスウェーデン、スペインも署名。それぞれ、ナポレオン戦争でフランスに奪われた領地を元に戻すことなどが定められました。

第二次パリ条約・百日天下から転じて賠償金は7億フラン!

第一次パリ条約によってフランス皇帝の座を退きエルバ島に流されたナポレオン。これでヨーロッパに平和が訪れるかと思われました。

しかし実際には……。ナポレオンの代わりに皇帝に返り咲いたブルボン王朝のルイ18世はフランスをうまく統治できず、庶民の不満は募る一方。領土を取り戻したはずの諸外国も、長い戦闘による混乱が鎮まらず互いに牽制しあう状況が続いていました。

そんな逃げ切らない状態に機を見たナポレオンは1815年3月、パリに戻り、再び帝位に。戦闘は締結したはずなのに、フランスは再び戦いに身を投じます。

ナポレオンはフランス軍を率いて戦いますが、そんな状態が続くわけもありません。百日天下とも呼ばれるナポレオンの一時的支配の後、フランスを待ち受けていたのは厳しい講和条件でした。

第一次パリ条約の時より領土は狭くなり、周囲の国々に対して7億フランもの賠償金の支払いが課せられ、フランス国内に駐留する諸外国軍の経費も負担することに。これが「1815年のパリ条約」です。

パリ条約 (1856年)~クリミア戦争の講和条約

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近世で最も悲惨な戦争のひとつとして語られることの多いクリミア戦争。ナイチンゲールが看護師として派遣されたことでも知られるこの戦争の締結に関する条約も、実はパリで取り交わされました。発端はロシアとオスマン帝国との間での「聖地管理」を巡る争いでしたが、ロシアの台頭を警戒するイギリスやフランスなど、ヨーロッパ各国の様々な思惑が絡み合って大規模な戦争へと発展。長く苦しい戦いの最期に交わされた条約とは、いったいどのような内容のものだったのでしょうか。

ロシア南下を阻止すべし!連合軍との激しい戦闘

クリミア戦争は1853年から1856年まで続きました。発端は、黒海の北側に突き出たクリミア半島にロシアが南下してきたこと。この地域は古くから、様々な民族や宗教が入り混じって生活しており、13世紀からはオスマン帝国が広く支配をしていました。

しかし17世紀ごろになると、領土を広げすぎて傾き始めたオスマン帝国に、様々な国がちょっかいを出し始めます。クリミア半島に侵攻し始めたロシアもそのうちのひとつでした。

ロシアの動きは、ヨーロッパの国々にとっても気にかかるところです。特に警戒を強めたのがイギリスとフランス。ロシアとオスマン帝国の関係に介入し、やがて戦死者20万人以上とも言われる激しい戦争へと発展してしまうのです。

戦闘は誰も望まない形で数年続きました。あまりの激しさに各国とも疲弊。ロシア軍は撤退しましたが、誰が勝利者かわからない状態で戦闘は収束していきます。

講和条約の影響とフランスの地位回復

1856年3月、オーストリアとプロイセン立ち合いのもと、パリで講和会議が行われることとなりました。これが「1856年のパリ条約」です。

オーストリア、プロイセンのほかに、オスマン帝国、ロシア、イギリス、フランスと、当時イタリアとフランスの境目地域に存在していたサルデーニャ王国が締結に臨みました。

この条約では講和のほかに、黒海の中立化やドナウ川航行の制限など、ロシアの南下を防ぐための措置が盛り込まれます。

この条約により、ロシアはいったんはおとなしくなりますが、それでもやはり温暖な領土は欲しいところ。19世紀後半になると再び南下を始めます。

また、この条約では、直接戦火に見舞われることのなかったイギリスが強いリーダーシップを発揮。フランスもナポレオン戦争後の地位停滞から息を吹き返します。ヨーロッパの国々の力関係が大きく変わった条約ともなりました。

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