ガルナボリの統一運動
ナポレオンによってイタリアは支配されましたが、ワーテルローの戦いで正式にナポレオンの時代が終わりを迎えるとイタリアはウィーン体制のもとで再びオーストリアなどに分割統治される時代に逆戻りすることになります。
しかし、ナポレオンが植えつけたナショナリズムの芽はここで止まることなく、そのナショナリズムはイタリアの統一を求めるカルボナリの一大運動へと発展していくことになりました。
1821年にカルボナリはナポリにて反乱を起こし、1831年にはフランスで起こっていた七月革命の影響を受けて反乱が立て続けに起こりましたが、この反乱によってイタリアの支配が弱まると考えたオーストリアによってこの反乱はことごとく鎮圧。
1848年革命でヨーロッパの国が革命が起こるとイタリアはチャンスだと思い独立を宣言しますがこの動きも鎮圧されてしまい、イタリア統一は無理だと思うようになりましたが、この動きを変えるとある国がイタリア統一を成し遂げることになるのでした。
サルデーニャ王国の統一運動
19世紀後半のイタリア統一運動の主導権を握ったのがミラノなどのイタリア北西部とサルデーニャ島を統治していたサルデーニャ王国でした。
この王国はナポレオン政権下ではサルデーニャ島に逃れ、ウィーン体制では緩衝国家としてなんとかバランスを取りイタリアの中では国力のある王国へと変貌を遂げていました。
そんなサルデーニャ王国の首相をしていたガウールはクリミア戦争の時に参戦して巧みな外交術でフランスの支援を得ると当時北部イタリアを統治していたオーストリアに宣戦布告。第一次イタリア戦争が幕を開けました。
しかし、当時フランスを治めていたナポレオン3世が当然オーストリアと講和したことによって独立戦争は頓挫。ガウールはこのことにブチ切れて一時期首相を辞めるほどサルデーニャ王国にとってはかなりの痛手だったそうです。
このため、第一次イタリア戦争ではある程度のイタリアの土地を併合することはできたものの、イタリア統一にはなりませんでした。
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ガリバルディのシチリア遠征
第一次イタリア戦争が終わった時にイタリアを統治していたのはオーストリアをはじめとした4カ国。ガウールは南イタリアを支配していた両シチリア王国は統治しなくてもいいと考えていましたが、この時に動きを見せたのが今回の主人公であるガリバルディでした。
ガリバルディは元々はニースの船乗りだったそうですがイタリア統一運動が起こるとそれに参加して尽力。一時期は逃亡しますがサルデーニャ王国がイタリア統一に乗り出すとこの運動に参加していくようになりました。
ガリバルディはシチリア王国を占領するために千人の義勇軍からなる赤シャツ隊を組織してシチリア島に上陸。そこから一気に北上していきシチリア王国の首都であったナポリを陥落して南イタリアを征服しました。
ガリバルディは元々は共和制を行いたかったそうですが、この征服した土地をサルデーニャ王国の国王であったヴィットリオ=エマヌエーレ2世に献上することでイタリア統一を成し遂げる道を選択。南北イタリアは統一して1861年にイタリア王国が成立しました。
ローマ占領と未回収のイタリア
こうしてイタリアのほとんどを手に入れたイタリア王国でしたが、まだ統一したばかりのこの頃は肝心の都市であるローマを手に入れておらず都もトリノのままでした。
実はこの当時ローマは教会勢力に支配されており、さらにフランス軍によって守られている状態でした。
しかし、普墺戦争と普仏戦争にてイタリアを占領していたフランスとオーストリアの力が弱まるとイタリア王国はローマを占領。
教会勢力のトップである教皇はこの占領に強く抗議して最終的な解決は1929年までもつれ込みましたが一応1871年にイタリア王国はローマに遷都。イタリアはついに真の統一を成し遂げたのでした。
しかし、イタリアと呼ばれる地域をこの頃全て手に入れることはできずこのことは後に「未回収のイタリア」として第一次世界大戦までもつれ込むことになるのです。
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