兄の死後、ほぼひとりで「両川」の重責を担う
天正14(1586)年の九州征伐にも従軍し、功績を挙げた隆景でしたが、この時、兄・吉川元春が陣没してしまいます。その息子の広家が跡を継ぎましたが、兄ほどの存在感をまだ発揮することはできず、隆景の肩にさらなる責任がのしかかることとなりました。
秀吉からの信頼は引き続き絶大で、彼には九州の一部までもが領地として与えられることになりました。
しかし、隆景はそこで「こんなに広い領地をいただいては、主・輝元をそばで支えることができなくなってしまいます」とまさかの辞退を申し出ます。
ただ、秀吉も本当に隆景を気に入っていたらしく、なかなか引き下がりません。ならばその地を秀吉の直轄地とするから、代官となってくれないかと提案するなどし、そのあまりの食い下がりように、ついに隆景も首を縦に振らざるを得なくなったのです。こうして、隆景は筑前・筑後(福岡県西部と南部)に移ることとなりました。
主家に代わり、秀吉からの養子をもらいうける
隆景には実子がなく、養子として歳の離れた弟・元聡(もとふさ/後の毛利秀包/もうりひでかね)を迎えていましたが、豊臣秀吉も彼と同様、実子に恵まれずに養子を取っていました。
ところが、文禄2(1593)年、秀吉に待望の実子・秀頼が生まれると、養子たちの存在が微妙なものになってきたのです。
そこで秀吉は、彼らをあちこちの大名たちに養子という名目で押し付けることにしたのでした。
その目は、やはりまだ実子がいなかった毛利輝元に向けられたのです。
そこで秀吉は、信頼する隆景に対し、「自分のところの孝俊(たかとし)を輝元にやりたいのだが、どうだろうか」と持ち掛けました。
このままでは、秀吉の息のかかった、毛利とは縁もゆかりもない人物に毛利家を乗っ取られてしまいます。
すぐにそれを悟った隆景は、「すでに主・輝元には養子の話が決まっておりますので、実子のいない私にぜひともいただきたい」と申し出たのでした。
隆景が養子としていた元聡は、武勇に優れ、将来有望な若武者でした。しかし、天下人・秀吉の面子を潰さず、かつ主家を養子による乗っ取り劇から救うには、隆景は涙を呑んで元聡を廃嫡するしかなかったのです。まさに、捨て身の申し出でした。
そして、隆景のもとに秀吉の養子だった孝俊が養子入りします。彼こそ、後の小早川秀秋(こばやかわひであき)。関ヶ原の戦いで世紀の裏切りを演じることになる人物でした。
養子・秀秋により家は断絶…
秀秋に家督を譲ると、隆景は隠居の身となります。秀吉の養子をもらいうけたこともあり、隆景は秀吉を支える五大老(ごたいろう)のひとりに名を連ねるまでになりました。
しかし、それからわずか2年後の慶長2(1597)年、隆景は65歳でこの世を去ります。
隆景に仕えてきた優秀な家臣たちは、秀秋に仕えることなく毛利へと戻り、小早川は秀秋が連れてきた豊臣系の家臣一色となりました。
そして、養父の知謀を受け継ぐ時間もなかった秀秋は、慶長5(1600)年に関ヶ原の戦いにおいて、西軍から東軍へと寝返り、西軍の大敗のきっかけをつくることとなります。
しかし、「裏切り者」との誹りを免れることはできず、やがて酒浸りの生活となり、跡継ぎも残さないまま21歳で急死してしまいました。これで、小早川氏は事実上の断絶となってしまったのです。
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父の言いつけを守り、実家を支え続けた隆景
戦国屈指の軍師・黒田官兵衛(くろだかんべえ)からも尊敬されており、「日本から賢人がいなくなってしまった!」と死の際には嘆かれたという隆景。もしかすると、秀秋を養子にした時点で小早川の将来を予測し、諦めていたのかもしれません。ただ、もし彼がもう少しだけ長生きしていたら、関ヶ原の戦いの行く末に何らかの違いが生じたのでは…とも思ってしまいます。
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