日本の歴史昭和

世界最大の戦艦だった「武蔵」~その栄光と悲劇の歴史をたどってみよう~

戦艦武蔵の最期

Japanese battleships at Brunei, Borneo, in October 1944 (NH 73090).jpg
By 不明 – U.S. Naval History and Heritage Command photo NH 73090, パブリック・ドメイン, Link

武蔵が自らの力を発揮することなく、日本の戦況はもはや絶望的な状況となっていました。しかし、そんな武蔵に乾坤一擲のチャンスが巡ってきました。それがレイテ沖海戦といわれたフィリピンを舞台とする一大海戦だったのです。

レイテへ殴り込み作戦!ブルネイを出撃

マリアナ諸島の次に、アメリカ軍が狙いを定めたのがフィリピンでした。ここを押さえられてしまえば、南方の資源地帯からの輸送が危機に瀕することになるため、日本側は何が何でも守らねばならない拠点だったのです。

1944年10月、フィリピン中部のレイテ島に上陸したアメリカ軍は、その強大な戦力で日本側を圧倒します。そこで陸上部隊を支援するため、日本側が考えた作戦が、レイテ島への殴り込み作戦でした。

既に空母機動部隊が壊滅していた連合艦隊は、何とかアメリカ空母部隊を別の場所へ引き付け、その隙に戦艦部隊が突入するという作戦でした。制空権がないゆえの無謀ともいえる計画でしたが、それ以外に対抗手段がないと判断した上層部は、まさに連合艦隊の総力を挙げての攻勢に打って出たのです。

ブルネイを出撃した武蔵と大和を含む栗田艦隊は、主力として進撃を開始しました。

武蔵に襲い掛かる敵艦載機群

Musashi under fire.jpg
By U.S. Navy – U.S. Navy National Museum of Naval Aviation photo No. 1996.488.037.016; Official U.S. Navy photo NH 63432 from the U.S. Navy Naval History and Heritage Command, パブリック・ドメイン, Link

敵と遭遇しないうちから、パラワン水道を航行中に潜水艦からの攻撃を受け、旗艦「愛宕」「摩耶」が沈没。幸先の悪いスタートとなりました。

10月24日の朝に、アメリカ軍偵察機によって発見された栗田艦隊は、この後、アメリカ軍機の波状攻撃に見舞われることになり、特に艦体の大きい武蔵に攻撃が集中したのです。

第1次空襲で爆弾と魚雷それぞれ1発ずつが命中。

第2次空襲で爆弾2発、魚雷3発が命中。速度は22ノットに低下します。(武蔵の全力運転は27ノット)

第3次空襲で魚雷1発命中。宇垣中将の「戦藻録」によれば、この時の状況を以下に記していますね。

 

「1330更に第三次来襲、29機。此の時より武蔵の艦首左舷外板まくれて大波を立つ。高速の使用は益々無理を来さしむるを以て注意して全体の速力は20ノット(節)として回避せるも武蔵は遅れ気味なり。

撃墜敵機の少なきは残念なり。武蔵益々後落し、同行の望みなきに依り、駆逐艦を武蔵を附して馬尼刺(マニラ)に向はしむる事となる。」

 

爆弾と魚雷が複数命中命中し、艦体が傾斜しても、海水を内部に注水することで復元できましたが、大量の海水を取り込んだために速度はますます低下します。こうして武蔵は本隊から落伍していきました。

作戦続行不可能だということで、マニラへ向かうように指示されますが、時すでに遅し。武蔵は逃げることすらできなくなっていたのです。

断末魔の武蔵

Musashi 24 Oct 1944.jpg
パブリック・ドメイン, Link

完全に落伍した武蔵に対し、なおも情け容赦なく敵の航空攻撃が集中しました。

第4次空襲。爆弾、魚雷それぞれ4発ずつが武蔵に命中し、ついに司令部から「近くの浅瀬に乗り上げるように」と命令が出されました。しかし、この頃になると度重なる攻撃と注水によって、前甲板は波に洗われるようになります。

第5次空襲は他の艦に攻撃が集中したため、武蔵に被害なし。

第6次空襲。この時の空襲がまさに武蔵の運命を決定づけました。なんと爆弾10発以上と魚雷11発を受け、大炎上します。もはやまともに動きを取れない武蔵は、アメリカ軍機の格好の目標となっていたのです。

この時の武蔵の戦闘詳報が現存していますね。猛攻を受ける武蔵の断末魔の声が聞こえてきそうな表現がそこかしこに。

 

敵機来襲、甚大ナル被害ヲ受ク。明瞭ナルモノ、魚雷命中11本、直撃爆弾10個、至近爆弾6個ニシテ、水柱林立爆弾砲煙全艦ヲ包ミ、敵情判然ナラザル所アリ。命中セザリシ魚雷爆弾多数アリシモノト認ム。

防空指揮所右舷ニ命中セル爆弾ハ、第一艦橋ニテ炸裂。防空指揮所右舷ヲ吹キ飛バシ、第一艦橋及ビ作戦室ヲ大破。第一艦橋の火災、備付「ドラム」缶ノ防火用水ニテジカニ消化ス。防空指揮所に於テ海軍少将猪口敏平(艦長)、右肩部重症。高射長海軍少佐廣瀬榮助、測射長兼先任艦長附海軍大尉山田武男戦死。

第6次空襲ノ被害ニ依リ、左へ約10度傾斜セルモ取舵転舵中ナリシ為、左傾斜約6度ニ止マリ、注排水ニ依リ約4度丈傾斜ヲ復原シ得テ残傾斜ハ左6度トナリ、「トリム」ハ前ヘ4メートルヨリ一挙ニ8メートル以上トナリ、艦首沈下シテ一番主砲塔左舷最上甲板ノ一部浸潜状態とナレリ

引用元 「軍艦武蔵戦闘詳報」アジア歴史資料センター

 

多数の爆弾や魚雷をその身に叩き込まれた武蔵は、もはや海に浮かんだ廃墟に過ぎなくなっていました。最初の空襲から9時間後、大きく左に傾斜した武蔵は復旧の見込み無しと判断され、総員退去が下命されました。

そして左へ大きく転覆し、2度にわたる爆発の後、艦首より沈没していったのです。そして艦長の猪口少将は武蔵と運命を共にしました。

 

「武蔵は1937急に傾斜沈没せりとの報を受く。嗚呼我半身を失へり!誠に申訳無き次第とす。

さながら其の斃れたるや大和の身代りとなれるものなり。今日の武蔵の悲運あるも明日は大和の番なり。遅かれ早かれ両艦は敵の集中攻撃を喰ふ身なり。思へば限り無き事なるも無理な戦なれば致方もなし。

宜しく豫て大和を死所と思ひ定めたる如く、潔く艦と運命を共にすべしと堅く決心せり。」

 

宇垣中将の「戦藻録」の中にも、武蔵を失った悲痛な思いが表現されていますね。そして半年後の大和の運命をも予見しているようです。

海底で発見された武蔵

image by PIXTA / 39743464

2015年3月、マイクロソフト社の創業者ポール・アレンが、シブヤン海の海底に眠る戦艦武蔵を発見し、大きな話題となりました。1,000メートルもの深海で、船首部分や艦体、スクリューなどの部品などが見つかっていますね。爆弾17発、魚雷20本もの攻撃を受けても簡単には沈まなかった武蔵。その栄光と苦闘、悲劇の歴史は語り継がれていくことでしょう。

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明石則実