日本の歴史昭和

世界最大の戦艦だった「武蔵」~その栄光と悲劇の歴史をたどってみよう~

戦艦武蔵が就役。連合艦隊旗艦となる

1942年8月竣工時の武蔵
By 不明https://ww2db.com/image.php?image_id=1593, パブリック・ドメイン, Link

1938年3月、武蔵は三菱重工長崎造船所で建造が始められました。広島の呉で建造中だった大和と同じく、その存在は秘匿中の秘匿で、もしスパイに知られてしまえば対抗策を講じられてしまうわけで、まさに厳戒態勢で作業が続けられたのです。

港湾都市長崎は、すり鉢状の地形となっていて、高台から眺めれば武蔵の姿が丸見えになってしまいますから、グラバー邸など高台にある建物は、三菱によって買い占められたといいます。

1940年に進水。よく「進水式」など耳にする言葉ですが、進水とは、船体部分が完成した時に、実際に海に浮かべるという作業のこと。その際に式典を行って祝福するわけですね。排水量6万トンもの巨艦が海に浮かぶとなると、当然の如く大波も立ちますから、その時点で地元民にはバレバレだったそうです。

そして進水が終われば今度は艤装工事が始まりました。実際に艦橋などの上部構造物を組み上げたり、主砲を取り付けたり、内装工事を行うことになります。

そして一番艦大和より遅れること半年。太平洋戦争は既に始まっていましたが、1942年8月に武蔵はようやく就役しました。通信設備が大和より優れていた武蔵は、翌年、連合艦隊旗艦となる栄誉を得ます。

不遇の時を過ごす戦艦武蔵

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By 神田 武夫 – http://www.geocities.jp/jrksonic883/index.html. This photo is part of the records in the Yamato Museum (PG071333). Search with the kanji characters of Musashi (武蔵) for the name (second field), and 昭和 for the period (last field)., パブリック・ドメイン, Link

日本最後の新式戦艦として誕生し、日本海軍の期待を一身に背負った武蔵でしたが、軍令部の方針によって不遇の時を迎えることになります。各地で激戦が行われているにも関わらず、作戦にほとんど参加することもなく投錨したまま動かない武蔵を、心ない人は「武蔵御殿」と揶揄しました。

その当時の日本の戦況とは?

太平洋戦争開戦後、連戦連勝だった日本軍も、1942年6月のミッドウェー海戦での大敗北以来、徐々に戦況が不利になりつつありました。その最も大きな理由は、戦線を広げ過ぎたこと。日本軍は既に中国大陸へ100万もの陸軍を送っており、その上、広大な太平洋地域にまで攻勢を取り続けていました。

西はインド国境、南はニューギニア、東はアリューシャン列島にまで広がった戦線は、攻め込んだはいいものの、それを維持することが非常に困難でした。遠い戦線へ食料や弾薬を届けるためには、輸送システムが整備されていなければ立ち行きません。そういった計画性もなしに、どんどん拡大された戦線の末端では多くの悲劇が起こることになりました。

さらに日本軍の補給軽視という考え方が、それに拍車を掛けます。大事な輸送船であるにも関わらず、ロクな護衛も付けずに送り出したため、次々とアメリカ潜水艦や航空機の餌食となって沈んでいきました。

日本海軍の伝統的な軍事ドクトリン(基本原則)は、比較的日本に近いマリアナ諸島で艦隊決戦を挑むはずが、いつの間にかさほど重要でもない遠い戦線に、なけなしの戦力をちぎっては投入し続けたため、日本にとって最も危険な消耗戦へ巻き込まれていったのです。

ガダルカナル島ニューギニアでの悲劇は、そういった日本軍の考え方や体質が生んだものだといえるでしょうね。これらの地域では、戦死よりも、餓死や病死のほうが圧倒的に多かったことからも推測できます。

戦況が不利にも関わらず、なぜ武蔵は出撃しなかったのか?

オーストラリアから北東に位置するニューギニアソロモン諸島の戦線では、連日のように激戦が展開されていました。周辺の海域では、日本海軍もなけなしの戦力を投入して、大きな海戦も展開されており、戦艦「比叡」「霧島」をはじめ多くの日本側艦艇も撃沈されました。

日米双方ともに多くの艦艇が沈没したため、いつしかその海域はアイアンボトム(鉄底海峡)と呼ばれるようになったくらいです。

では武蔵は、その時いったい何をしていたのか?実は後方にあるトラック島でまったく動かずにいました。日本海軍上層部の考え方としては、武蔵や大和はあくまで艦隊決戦用。そんな最前線の僻地で使うわけにはいかない。と考えていたようです。

海でも陸でも、将兵たちは血で血を洗う激戦を展開しているにも関わらず、戦力を出し惜しみして一向に出撃させない。それもまた日本軍の負の体質だといえるのかも知れません。

当時、連合艦隊の参謀長だった宇垣纒の手記「戦藻録」には、当時の上層部がひたすら艦隊決戦を望んでいたことがわかります。

 

「昨夕刻テニアンの南270浬に敵大部隊ありとの報なれども、味方船団の誤認と判明。昨日以来敵情を得ず。最早暴れる丈暴れたれば切り上時なりと判断す。

武蔵に就ては大いに心配しつつありしが果してたり本日艦長より入電あり。即ち同艦29日、パラオ出撃後、27番ビーム左舷水線下6メートルに雷撃を受け12番−40番ビーム破孔揚錨装置全部使用不能其の他軽微なりと。」

引用元 宇垣纒「戦藻録」原書房より

 

敵の大艦隊発見の報告があり、出撃しようとしたが誤認だったと判明。その上、敵艦隊と遭遇しないままに、今度は潜水艦の攻撃を受けてしまったとありますね。

軽度な損傷でしたが、武蔵は日本へ帰還し修理を行います。この時に連合艦隊旗艦の任を解かれることにもなりました。

大敗北を喫したマリアナ沖海戦

アメリカ海軍との一大艦隊決戦を望んでいた連合艦隊に、ついにそのチャンスが訪れたのは1944年6月のこと。サイパン島やグアム島があるマリアナ諸島へアメリカ海軍の大部隊が来攻したのです。

「マリアナ諸島に敵を引き込んで決戦に持ち込み、殲滅する。」

これまで日本海軍が研究し、練りに練ってきた計画を実行する時でした。ところが、その頃のアメリカ海軍は、もはや日本側が想定するよりも遥かに増強され、量・質・技術ともに、日本側を凌駕するほどの戦力だったのです。

アメリカ軍の素早い動きで、まず陸上の基地航空隊が殲滅され、今度は再建なったばかりの日本側空母機動部隊が先制攻撃を仕掛けますが、いまだ未熟なパイロットたちは、面白いように撃ち落されていきました。

日本の技術を遥かに超えるレーダー網は、やってくる日本側の機影を早い段階で捉え、最も有利な高空で大量の戦闘機を待機させていたのです。

日本側の戦果はほぼゼロに等しく、逆にアメリカ側の反撃を受けて多くの空母が撃沈され、マリアナ沖海戦は大惨敗に終わりました。

日本側は攻撃力のある戦艦部隊を前面に押し立てて、空母機動部隊の盾にしたにも関わらず、上空をスルーされ、空母だけを狙われたのでした。もちろん武蔵も無事に帰還しましたが、日本の空母機動部隊は、もはや二度と再建されることはありませんでした。

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明石則実