持統天皇の中央集権政治とは
持統天皇は、天武天皇逝去の686年から703年までの約17年間実質的に日本の統治をおこないました。実際には697年に天皇位は妹の元明天皇に譲っていますが、権力は持ち続けていたと言われています。その間には、飛鳥淨御原宮から本格的な唐の長安をモデルにした本格的な初めての条理制の計画区画を持った藤原京を建設し、遷都しました。奈良の平城京が完成するまでこの都で政治をおこなっていたのです。
その政治は天武天皇の天皇中心の中央集権政治でした。
持統天皇は、天武天皇の施策を受け継ぎ、国史の編纂を指示して、彼女が亡くなった18年後の720年に日本書紀として完成しています。
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持統天皇の時代には強い男系天皇が生まれなかった
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天武天皇の後に日本で問題だったのは、天皇中心の中央集権を目指したものの、強い男性天皇が生まれなかったことでした。天武天皇の後、文武天皇とその子聖武天皇の時代には持統天皇、元明天皇(文武天皇の母)、元正天皇(文武天皇の姉)と3代の女帝が即位しています。
しかも、文武天皇自身がそれほど強い天皇ではなく、707年には24歳の若さで亡くなってしまいました。その後は、母の阿閉皇女と姉日高皇女が元明天皇、元正天皇として引き継ぎ、文武天皇の子供であった首(おびと)皇子が聖武天皇として即位するまでつながざるを得なかったのです。
しかも、この時代には貴族たちによる反乱も頻繁に起こりました。中臣鎌足が改名した藤原家などの貴族が昔の豪族たちと同様台頭してきたのです。聖武天皇の後も、娘の阿倍内親王が孝謙天皇(重祚して称徳天皇)として即位しており、奈良時代は女帝の時代と言っても良いほどでした。そのため、せっかくの天皇中心の中央集権政治は、再び貴族となった有力豪族の天下になっていったのです。
古代には男系天皇へのつなぎで女帝は当たり前だった
古代においては、男性天皇へのつなぎとして女性天皇がたつのは当たり前になっていました。とくに7世紀頭の推古天皇以来、奈良時代までの200年間は非常に多くの女性天皇が生まれているのです。そのほとんどは権力のない名目だけの傀儡の女帝でした。その中で、異色の存在だったのが持統天皇だったのです。
持統天皇は強い女帝としての存在感が際立つ
持統天皇は自分の意思で天皇に就き、政治手腕を発揮しました。しかし、その後の文武天皇の母と姉である元明天皇、元正天皇はつなぎの力のない女帝に戻っており、朝廷の貴族にあやつられる存在です。聖武天皇も久しぶりの男性天皇でしたが、体が弱く、政策的には東大寺の大仏開眼くらいで、目立った業績は残していません。むしろ、皇后の光明子の国分寺・国分尼寺の設置のほうが目立ちます。この光明子皇后は、大化の改新で手柄のあった中臣鎌足の家系で藤原不比等の娘です。
こうして、強い女性天皇としての持統天皇以降の天皇中心の政治はいつしか名目だけになっていいきました。
女性天皇を考えさせてくれる持統天皇
持統天皇は強い女性天皇でしたが、それ以外の女性天皇はほとんどがつなぎとしての権力を持たない女帝でした。それは、持統天皇が皇統の家系を絞ってしまった結果とも言えます。その結果、天皇中心の中央集権政治は衰退してしまったのです。
現代でも、天皇家の跡継ぎ問題が浮上しており、女性宮家や女性天皇の検討が話題になっていますが、皇統を狭めてしまうと天皇制そのものが揺らいでしまうことになりかねません。しっかりと論議をしていく必要があるでしょう。