後醍醐天皇との対立
鎌倉で戦後処理に当たった尊氏は、建武政権の矛盾に直面します。建武の新政では土地に関する裁判は天皇の綸旨によって決定するとされました。ところが、持ち込まれる裁判の数があまりに多く、裁判に不慣れな建武政権の人々は迅速に処理することが出来ませんでした。
中先代の乱が拡大した背景の一つは、土地関係の裁判が一向に進まないことへの武士たちの苛立ちがありました。尊氏は迅速に戦後処理を行うため、天皇の綸旨を待たずに論功行賞を行います。
このことに、激怒した後醍醐天皇は新田義貞に命じて尊氏を討伐させました。しかし、尊氏軍は新田義貞軍を箱根で打ち破り、逆に京都に進撃します。尊氏と後醍醐天皇の対立は、もはや、引き返すことが出来ない段階に突入してしまいました。
北朝の擁立と室町幕府
後醍醐天皇と対立した足利尊氏は、京都周辺で後醍醐天皇を支持する武士たちと戦って敗北します。しかし、九州に逃れた尊氏は戦力を立て直し、再び京都に向けて進撃しました。湊川の戦いで楠木正成を討ち取り、京都を制圧した尊氏は光明天皇を擁立。南北朝時代が始まります。尊氏は征夷大将軍に就任して幕府を開きましたが、足利勢も一枚岩ではなく内輪もめの観応の擾乱を引き起こしてしまいました。
尊氏の敗北と捲土重来
箱根で新田軍を破った尊氏軍は京都を目指して軍を進めます。一方、後醍醐天皇側も東北の北畠顕家を呼び寄せるなど、戦力を増強しました。尊氏軍は一度は京都を占領したものの、朝廷軍の反撃にあい、京都を放棄。尊氏は豊島河原の戦いで新田義貞、楠木正成らに大敗し、九州へと落ち延びました。
このとき、勝ったはずの朝廷軍から多くの武士たちが尊氏を慕って一緒に九州へと向かいます。九州に落ち延びた尊氏は少弐氏などの支援を受けて勢力を回復。再び京都に向けて兵を進めました。
楠木正成は湊川で尊氏軍を迎え撃ちます。数に勝る尊氏軍は正成の軍を打ち破り、正成を自害に追い込みました。その後、尊氏軍は京都を占拠。後醍醐天皇は京都を脱出します。
こちらの記事もおすすめ
南朝の忠臣・楠木正成を祀った「湊川神社」のすべてー地元在住ライターがご紹介! – Rinto~凛と~
北朝の成立と南北朝時代の始まり
湊川の戦いに勝利した尊氏は京都にはいりました。後醍醐天皇は比叡山に逃れます。尊氏は鎌倉幕府が擁立し、後醍醐天皇によって天皇位を否定された光厳上皇に目をつけました。
光厳上皇は尊氏の提案を受け、弟を光明天皇として即位させました。光厳上皇や光明天皇を味方につけることで、尊氏は朝敵の烙印を免れることが出来ます。さらに、尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられることで武士のトップであることを世間に知らしめました。
ところが、後醍醐天皇はあきらめず、京都を脱出し奈良県の吉野に脱出。自分がまだ天皇であると宣言します。そのため、京都にある光明天皇の朝廷を北朝、吉野にある後醍醐天皇の朝廷を南朝とよんで両者を区別するようになりました。二人の天皇が同時代に並立し、二つの朝廷が並存したこの時代を南北朝時代とよびます。
観応の擾乱
北朝と南朝の戦いは足利勢の活躍もあって、北朝が優位でした。新田義貞、北畠顕家、楠木正行らは相次いで斃れ、北朝の武将である高師直は吉野を焼き払いました。このまま、北朝による統一も間近と思われましたが、北朝内部で権力争いが発生します。
尊氏の下、政治を担当していた弟の直義と軍事を担当していた高師直が衝突しました。両者の争いは武力衝突にまで発展します。尊氏は、高師直を支持していましたが、劣勢となると師直の出家を条件に直義と和解しました。
のちに、再び直義と対立すると尊氏は南朝と和睦するなど、混乱は更に拡大しました。日本全国は直義・義詮派と直冬(直義の子)派、南朝の三つ巴の争いとなります。
尊氏は南北朝の統一を待たずにこの世を去りました。観応の擾乱によって、南北朝の統一は遠のき、最終的には尊氏の孫である義満の時代まで解決は持ち越されます。
後世の評価
はじめは鎌倉幕府に従いながら、後醍醐天皇に忠誠を誓い、その後醍醐天皇からも離反して北朝を擁立した足利尊氏。その評価は大きく分かれました。
当時の武士たちは建武の新政に強い不満を持っていました。土地関係の裁判が遅々として進まなかったことなどが原因です。武士たちは尊氏を自分たちの利益を代表する存在と評価し、彼を支持しました。
江戸時代に入り、朱子学が盛んになると家臣は主君に従わなければならないと言う「大義名分論」が盛んになります。幕末に一世を風靡した尊王攘夷論と大義名分論が結びついた結果、足利尊氏は天皇に弓を引いた逆賊だと評価されることもありました。
そのため、幕末には等持院にあった尊氏・義詮・義満の木像がさらし首にされる事件も起きます。時代状況によって、尊氏の評価は大きく変化しました。