リンカーン当選に反発した南部諸州の独立と南北戦争の始まり
1860年、リンカーンは共和党の大統領候補として選挙に臨みました。一方の民主党は党内が分裂。北部民主党と南部民主党に分かれた分裂選挙を展開してしまいます。選挙の結果はリンカーンの勝利。共和党は初めて政権を握ります。
奴隷制拡大反対論者であるリンカーンが当選したことで、南部では連邦から離脱すべきだとする意見が強まりました。1860年12月、南部諸州の一つであるサウスカロライナ州がアメリカ合衆国からの離脱を宣言。合計11もの州が連邦から離脱し、ジェファソン=デヴィスを大統領とするアメリカ連合国の建国を宣言しました。
1861年7月、アメリカ連合国軍(以下、南軍)はアメリカ合衆国軍(以下、北軍)のサムター要塞を攻撃。南北戦争が始まります。
ホームステッド法による西部諸州の取り込み
南軍と北軍を比較すると、戦力は北軍の方が優勢でした。しかし、戦争当初は南軍の優勢で推移します。南軍の司令官、リー将軍の率いる部隊は強く、たびたび北軍を打ち破りました。
また、綿花貿易で南部とつながりの深いイギリスはひそかに南部を支援。北軍は苦戦を強いられます。事態を打開するためリンカーンは西部諸州を味方につけようと考えました。
そのためにリンカーンが出した法律がホームステッド法です。ホームステッド法は、ミシシッピ川以西に一家が移住し5年間定住・耕作した場合は160エーカーの土地を無償で与えるとした法律。開拓農民主体の西部諸州はホームステッド法を歓迎。リンカーン支持を打ち出しました。
奴隷解放宣言
ホームステッド法の制定で西部諸州の支持を取り付けたリンカーンでしたが、依然、精強な南軍に苦戦を強いられていました。リンカーンはイギリスやフランスによる南軍支援を断ち切るため、戦争の大義名分を打ち出す必要に迫られます。
1862年9月、リンカーンは奴隷解放宣言の予備宣言を出し、1863年1月から南部諸州でも奴隷を無償かつ即時に解放することとしました。19世紀中ごろ、奴隷制度の廃止は世界的な潮流となっており、イギリスでも1833年に奴隷制度を廃止しています。リンカーンは戦争の目的を奴隷制度の廃止だとすることで、イギリスが南部を支援できないようする狙いがありました。
リンカーンの狙いは的中。国内世論に配慮し、奴隷制をとる南軍を支持できなくなったイギリスをはじめヨーロッパ諸国は北軍支持を明確に打ち出します。リンカーンは徐々に南軍を孤立させていきました。
ゲディスバーグの演説
1863年7月、南軍のリー将軍は北軍の中心都市であるボルティモアやフィラデルフィアの攻略を目指して北上。ゲティスバーグへと進軍しました。北軍は交通の重要地点だったゲティスバーグを防衛するため部隊を集結。南軍は北軍陣地を猛攻撃しますが、北軍は耐え続けます。
双方合わせて150,000人以上が動員されたゲティスバーグの戦いは、合計40,000人以上の死傷者を出しました。最終的に南軍は北軍を突破することができず、軍を南に返します。この戦い以後、北軍は徐々に優勢となり南軍を追い詰めていきました。
戦いの4か月後にあたる11月、リンカーンはゲティスバーグにつくられた国有墓地で演説を行いました。「人民の、人民による、人民のための政治」というフレーズで有名なゲティスバーグの演説です。リンカーンは戦死者への哀悼をささげつつ、人民のための政府を地上から絶滅させないために戦わねばならないと訴えました。
こちらの記事もおすすめ
アメリカ最大の内戦、南北戦争とは? – Rinto~凛と~
リンカーンの死とその後も続いた黒人差別
ゲティスバーグの戦い以後、数に勝る北軍は徐々に南軍を圧倒します。西部諸州の支持を失い、イギリスなどからの支援を絶たれた南軍は敗北しました。戦争終結の4日後、リンカーンは演劇を鑑賞中に暗殺されてしまいます。リンカーンの死後、解放されたはずの国人たちへの差別は続きました。
リンカーン暗殺
ゲティスバーグの戦いで北上を阻止された南軍は、徐々に守勢に回ります。北軍の司令官グラント将軍は局地戦で敗れても、すぐに兵力を補充して数に劣る南軍を圧迫し続けました。
勝利しても損害を回復することが難しい南軍はグラントによる物量作戦の前に、徐々に力を削られます。1865年4月、北軍は南軍の首都リッチモンドを制圧。南軍の名将リー将軍を追い詰め降伏させました。主力を失った南軍は継戦能力を奪われて降伏。南北戦争はようやく終結しました。
終結の5日後、リンカーン夫妻はワシントンのフォード劇場のボックス席で演劇を鑑賞。その最中に、リンカーンは至近距離から発砲され殺されてしまいました。犯人は熱狂的な南部支持者で、馬に乗って逃亡しましたが後に発見され銃撃戦の末、射殺されます。在任中の大統領が暗殺されたのはこれが初めてで、アメリカ全土に衝撃が走りました。