明治天皇によって湊川神社が創建される
正成の死後、その首は菩提寺の観心寺へ送られ祀られました。そして正成最期の場所である湊川においても、正成を慕う地元の人々によって墓所が造られ、大切にされていたのです。江戸時代初期には尼崎藩主青山幸利によって、松と梅が植えられ、石塔も建てられました。
あの水戸黄門こと水戸光圀も「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑を建て、墓所も立派に建立したといいます。時代は儒教全盛の時代。身分制度が確立し、天皇から政権を委譲されている立場の徳川幕府にとっても、かつて天皇のために忠節を尽くした正成を【ヒーロー】として扱う必要性があったのです。
幕末~明治維新にかけて、英雄化された正成は「尊王の鑑(かがみ)」として、多くの志士たちが墓を訪れたといいます。
やがて明治時代を迎えると、天皇を中心とした集権政治を推し進める明治政府にとっても正成の存在は、「国民のあるべき姿は、楠公のように皇室へ尽くすこと」という解釈を、国民へ知らしめるために格好のモチーフになったのでした。
明治5年、明治天皇によって湊川の地に湊川神社が創建されました。楠木正成は神となり、多くの国民から崇められることになりました。
太平洋戦争では軍神として崇められた正成
やがて時代は下り、日本が太平洋戦争へ突入していった頃、湊川神社や正成の存在もまた、戦争遂行のためのシンボルとなり、出征していく兵士たちがこぞって湊川神社を参拝していったといいます。
地元神戸でも学徒出陣は多く、神戸大学の前身でもある旧制神戸商業大の学生たちの実に8割が出征していったそうですね。
正成を彷彿とさせるものが、勇ましいモチーフやスローガンとして使われていきました。戦前の修身教育に取り入れられた【七生報国】は「七度生まれ変わってでも朝敵を打ち滅ぼしたい」という楠木兄弟の言葉ですし、軍旗に使われた【菊水】は部隊名や作戦名に使われました。
悲惨な戦争のために、自分の存在が利用されたことを、正成が果たして望んでいたかどうか?いずれにしても終戦になると、GHQの命令によって正成の存在は否定されてしまいました。「軍国」を彷彿させるものだったからです。
戦後しばらくして、歴史の再評価や研究が進むに従い、楠木正成の存在意義も違ったものになってきていますね。正しい歴史的評価のもと、再認識された彼の存在はこれからどうなっていくのでしょうか。それでも地元の神戸の人たちは親しみを込めて「楠公さん」と呼び続けるのです。
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楠公武者行列はぜひとも見ておくべき!
毎年5月に湊川神社で楠公祭(なんこうさい)が行われ、かなりの人出で賑わっています。その際に当時の鎧兜や装束を身にまとった武者行列が催されていますね。これが「楠公武者行列」です。行列は神戸の繁華街である三宮や元町商店街を練り歩き、往時そのままの時代風俗が再現されていますし、これは必見の価値があるでしょう。もちろん一般の方も参加できますので、ぜひとも見てほしいお祭りなのですね。