法家思想家の李斯を登用
李斯は秦王政に仕えた法家の学者です。法家とは、孔子や孟子ら儒家の考え方では人民を統治することが困難であるとして、法律を定め、刑罰を決定することで人民を統治するべきと主張する人々のこと。李斯は秦王政のもと、法による統治で秦の国力増強をはかりました。
秦では李斯をはじめとする外国(秦以外の国という意味)出身者が力を持っていましたが、ある外国出身者がスパイだと訴えられたことをきっかけに、外国出身者の国外追放を求める運動が起きます。李斯は秦王政に、外国出身者も取り込むからこそ秦は強大になると主張。政は李斯の進言を受け入れました。
政は李斯を深く信任し、李斯の献策を積極的に用います。政が中国を統一し始皇帝となった後、李斯は秦の丞相として秦帝国の政策に深くかかわり続けました。
六国を攻め滅ぼし、中国を統一
李斯らの進言を取り入れ富国強兵に成功した秦王政は、紀元前230年頃から六国の攻略に乗り出しました。政は手始めに、秦に近く、六国中で国力が弱い韓を攻め滅ぼします。次に標的となったのは、かつて自分が人質として暮らした趙でした。趙もまた、秦の圧倒的な力の前に敗れ去ります。
次に狙われたのは燕でした。北方の弱国に過ぎない燕は正面から戦っても勝てないと考え、荊軻に秦王政の暗殺を依頼します。しかし、荊軻による暗殺は失敗。激怒した秦王政は燕に攻め込み、都の薊(けい)を陥落させます。
秦の勢いはとどまるところを知らず、魏と楚もあいつで攻め滅ぼされました。最後に残った斉はほぼ無抵抗で降伏。紀元前221年、始皇帝は39歳にして中国全土を統一しました。
中国史上初の皇帝となった始皇帝の統治
広大な中国を初めて統一した政は、新たな称号として「皇帝」を採用。自ら、最初の皇帝となりました。秦は今までにない中央集権国家で、皇帝の命令一つで何十万もの人々が戦争や巨大工事に動員されます。統一後、始皇帝は全国各地を巡幸。各地で神をまつりました。晩年、始皇帝は不老長寿を夢見ますが得られず、紀元前210年に死去します。
皇帝に即位した始皇帝は中央集権国家を作り上げた
中国全土を統一した政は、王にかわる新たな称号を模索します。というのも、王という称号は政が滅ぼした六国の主も名乗っていたもので中国全土を統一するようになった今、王の上に立つ者の称号が必要だと考えたからでした。
紀元前221年、政は新たな称号として「皇帝」を制定。また、皇帝の命令を「制」、布告を「詔」、自称を「朕」とも定めます。王とは違う特別感を持たせたかったのかもしれませんね。
政(以後、始皇帝)は、全国を36の郡に分ける郡県制を施行し、全国を直接統治します。始皇帝の統治を支えたのが李斯をはじめとする官僚たちでした。官僚たちは始皇帝が定めた法に従って全国各地を統治します。こうして、始皇帝は自分の命令が中国全土の行き渡る中央集権のシステムを完成させました。
始皇帝が実施した様々な統一事業と思想統制
六国を滅ぼし中国を統一したといっても、秦と征服した他の国では政治・経済などあらゆる分野で違いがありました。始皇帝は、全国を統一支配するため政治や経済の統一政策を実施します。
一つ目は文字の統一。篆書(てんしょ)とよばれる統一の字体を定めました。次に貨幣の統一。戦国時代は、六国で全く違う貨幣が使われていました。始皇帝は半両銭を発行し貨幣を統一します。さらに、はかりや物差しの基準である度量衡も統一しました。
始皇帝の政策により中国の一体化が進められます。その一方、秦の統治に対し批判的な人々は徹底的に弾圧されました。法家や実用書以外の本を焼き捨てる焚書や、反対する儒者たちを生き埋めにした坑儒です。こうして作られた始皇帝の皇帝専制の政治システムは、清王朝が滅亡する20世紀まで継続しました。
異民族との戦争や万里の長城や阿房宮などの巨大建造物の建築
中央集権国家の誕生は、それまで不可能だった大規模な対外戦争や巨大建造物の建築を可能としました。紀元前215年、始皇帝は蒙恬(もうてん)将軍に命じて北方の強度を討伐させます。この時、匈奴を攻めるため750キロメートルに及ぶ「直道」を建設。匈奴を黄河南岸から追い払いました。
始皇帝は蒙恬に命じ、燕や趙が築いていた長城を修築・延長させ万里の長城とし、匈奴の反撃に備えさせます。南方でも南越を攻撃して南海・桂林・象郡の3郡を設置。北と南に領土を拡大しました。
その一方、始皇帝は都の咸陽の拡張や阿房宮とよばれる大宮殿、自らの墓となる驪山陵(のちの始皇帝陵)を人民を動員して建設させます。対外戦争や巨大建造物の建築などの負担に耐えかねた民衆は、始皇帝の死後に各地で大規模な反乱を起こし、秦帝国滅亡の直接原因となりました。
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