命は助けられるも…姿を消す
投降した弥助に対し、明智光秀は「こいつは動物だから何も知らない。日本人でもないし、殺す必要もない」と言って、解放しました。
「動物だから」という物言いには差別的なものを感じますが、当時の人々がみな信長のような柔軟な頭を持っていたわけではありませんから、命を助けてやったことだけでも、光秀には憐みの心があったのかもしれません。
そして弥助は、京都にあったキリスト教の教会「南蛮寺」に送られたのでした。ここは天正4(1576)年につくられた教会で、天正16(1588)年に豊臣秀吉が禁教令を発令するまでは存在していたそうです。
ただその後、弥助の足取りはぷっつりと途絶えてしまったのでした。いったい彼はどこに行ってしまったのでしょうか?
弥助の行方を推測してみる
弥助という名は南蛮寺に送られた時点で歴史上から消えてしまいますが、彼がもう少し生き永らえたことは推測できます。ここからはあくまで推測となりますが、弥助かもしれない人物の登場についてご紹介していきましょう。
九州に行った?戦に参加した黒人の存在
弥助が姿を消してまもなく、九州では天正12(1584)年に沖田畷(おきたなわて)の戦いという戦が起きました。これは龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)に対し、有馬晴信(ありまはるのぶ)と島津家久(しまづいえひさ)連合が戦いを挑んだもので、有利と見られていた龍造寺隆信が大敗し、九州の勢力図を大きく変える戦となったのです。
この時、有馬勢には大砲を操る部隊がいたのですが、この中に黒人がいたそうなんですよ。もしかすると、信長のもとで戦を学んだ弥助だったのではないか…と推測する説もあります。
ただ、当時の屏風絵などには幾人もの黒人の姿が確認でき、弥助が国内唯一の黒人だったという確証はないようです。
九州のキリシタン大名と黒人奴隷の関わり
弥助が有馬晴信のもとに行ったと仮定して、なぜ九州だったのかということについて考えてみましょう。
有馬晴信をはじめ、大友宗麟(おおともそうりん)など、九州にはキリシタン大名が点在していました。当然、ヨーロッパとのつながりがあり、多くの物品や文化が流入してきたわけです。そしてその中には、奴隷も含まれていたと考えられます。
ヴァリニャーノもそうですが、当時のキリスト教宣教師は主にポルトガルからやって来ました。この頃のポルトガルは全盛期を迎えており、奴隷たちをアフリカから世界各地に輸出していたのです。拠点はインドのゴアや中国のマカオなど、アジアにもありました。
弥助はモザンビークから来た?
ヴァリニャーノは、ゴアから弥助を連れてきたと伝わっていますが、ゴアの前にポルトガル領のモザンビークに立ち寄ったと言われています。このため、弥助はそのモザンビークから連れてこられたのではないかと推測されているのです。
こうした外国人の血が日本に流入していたことは、九州の和仁(わに)氏のことからもわかります。オランダ人の血を引くという、巨躯で青い目をした武将の子がいたと言われていますし、九州が外国と密接なつながりを持っていたことを証明していますね。