イギリスヨーロッパの歴史

「ナイチンゲール」はどんな女性?彼女の成功の秘密を歴史好きが徹底解説

「待つ」ことから「進む」に転じたナイチンゲール

旅行先での素晴らしい経験はまたもや家族に受け入れられず、依然同様に激しくののしられました。ここで彼女は「もはや家族の共感や援助は期待しない。理解を求める努力さえ放棄すべき」だと決意を固めるのです。

そこからは素早く行動を起こし、カイゼルスヴェルト学園に行って研修を受け、それが終わると次はパリにあるカトリック系の病院で見習い生として働きます。病院・診療所・救貧院を見学したり、看護の実習を重ねていたナイチンゲールに、さらに大きなチャンスが舞い込みました。ロンドンにある療養所が新たに管理職を探しているというのです。経営困難に陥った病院を立て直す仕事でした。このとき彼女は33歳、やっとひとり立ちへの一歩を踏み出すことができたのです。

そこで彼女は次々に病院を改革しました。温水用の配管を各階に引いてすぐにお湯を使えるようにし、患者の食事を運び上げるリフトや、ナースコールのようなベルも設置しました。これらは、彼女が家族に理解されない間、こっそり読みふけった報告書や、友人の紹介で研修を受けたり、見学した病院で学んだことを生かした結果でした。こうして彼女は設備を整え、さらに病院運営の仕組みも作り変えてすっかり経営を立て直したのです。

クリミア戦争における「待つ」戦い

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療養所の経営を立て直した彼女のもとに、さらに大きな仕事が舞い込みました。それは、クリミア戦争の地で看護の監督をするものでした。このお願いこそ、彼女がふさぎこんでいた時に旅行先で出会ったハーバートから頼まれたものでした。彼は陸軍省の戦時大臣として、イギリス軍兵士の医療管理を任されていたのです。クリミア戦争で働くイギリス兵士は、最低限の手当てもされないまま次々に死んでいくようなとても悲惨な状況にありました。そこでハーバートはナイチンゲールに白羽の矢を立て、看護の協力を求めたのです。彼女はこの依頼を喜んで引き受け、任務をやり遂げられそうなメンバーで看護団を結成し、すぐにイギリスを出発しました。

活躍できない「待つ」ことを強いられた看護団

戦地の病院に到着し、ナイチンゲールは仕事の進め方などを打ち合わせしようと軍医に声をかけるも、まったく取り合ってもらえませんでした。持ってきた物資の支給さえも受け入れられなかったのです。当然看護もさせてもらえませんでした。

ここにも女性看護師への差別的な見方がありました。医師たちは、女性が男性の兵士らを世話することで、風紀上の問題が起きることを恐れ、さらに貴夫人が指揮する看護団を邪魔になると決め込んで無視することを決めたのです。しかし戦時大臣のハーバートの頼みで来ていることも承知の上だったので、表立って異議を唱えることができず、ひどい部屋を与えて無視を続ければ、看護団の方が音を上げて立ち去るだろうと考えました。

「待つ」間にできることをする

苦しんでいる兵士たちを目の当たりにしながら、看護できないのはとても辛いことでした。しかしナイチンゲールは、ここでも、「待つ」ことが最良だと判断します。ことを急いて何かをするよりも、まずは軍医たちとよい関係をつくることが先決だと考えたのです。自分たちの看護が病院には必要だということを、言葉ではなく行動で示すことによって、軍医たちの信頼を得なければ、兵士たちを救うことができない、それが彼女の決断でした。

そこで彼女が「待つ」間にしたことは、兵士たちの食事の準備や、掃除・洗濯でした。しかしこの食事でさえも、医師の許可が必要で、正義感のある看護師たちは、飢えて死にそうな人がいるのだから、署名を待たずにどんどん食べさせてあげるべきだとナイチンゲールに強く反発します。それでも彼女は医師の命令に背くことはしないよう、看護師たちを説得しました。そうするうちに、規則を守り、医師の判断を尊重して看護の仕事を進めていこうとするナイチンゲールの姿勢が、徐々に軍医たちに理解されるようになっていきます。

「攻める」ときは間髪入れずに一気に

軍医の判断を尊重するナイチンゲールの姿勢は、ついに彼らの心を動かします。多くの兵士が運ばれ、軍医だけで対応できなくなると、看護団に助けを求めたのです。そこからの行動は非常に素早いものでした。まずは兵舎病院の掃除や環境の改善に着手し、病棟の増設や洗濯場・調理場も整えました。彼女はケガの措置だけでなく、傷病兵たちに栄養のある食事やきれいなシャツを用意し、みじめだった彼らの生活を安定させていきます。

また、兵士の死亡率が高い原因が衛生設備にあることをつきとめた彼女は、病院の衛生改善にも乗り出し、陸軍省に衛生の改善を求めました。こうして患者の死亡率は2%にまで下がったのです。

こうした病院の全体的な改革のほかに、彼女は看護師としての役割もまっとうしました。昼間の巡回で、意気消沈している患者には気分が明るくなるような話題や冗談を言って元気づけたり、夜の病棟では、うめき声やすすり泣く声が聞こえると、そこに静かに歩み寄り、静かに話しかけたり身体をさすってあげました。彼女は20時間以上立ち通しで働いていたといいます。患者が感じている苦痛を、一緒に体験しているかのような表情と態度で、彼女は患者を励まし続けました。

こうして病棟全体の空気が穏やかになったころ、ナイチンゲールは、病院内に図書室や郵便局をつくりました。病院の設備だけでなく、兵士たちの心のケアにまで気を配ったのです。

夢の実現のため「待つ」時間をどう過ごすか

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ナイチンゲールを知ると、夢の実現のための辛く困難な「待つ」時代をどのように過ごすかが、人生において非常に大切だということに気付かされます。彼女は家族からの猛反対にあっても、正面からぶつかることはせず、秘密裏に準備を進めました。クリミア戦争でも、軍医との正面からの対立を避け、できることを積み重ねていきます。彼女は何よりもまず、相手に理解してもらうことを大切にしていました。大きな改革を成し遂げるには、周りの理解が必要だということを知っていたのでしょう。「待つ」時代にできることを懸命にこなした彼女は、時機がきたら次々と行動を起こし、大きな改革を進めていきました。攻め時に確かな行動を起こすためには、待つ時間をどう過ごすか、彼女の人生にはそのヒントがたくさん詰まっています。

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