日本の歴史昭和

昭和維新とも言われる「二・二六事件」とは?日本国内の内戦の始まり?

二・二六事件が鎮圧されなかったらどうなっていたか

昭和天皇が自ら近衛兵を率いて鎮圧に向かうとまで発言するほど激怒した二・二六事件。もし鎮圧されなかった場合にはどうなっていたでしょうか。おそらく内戦という形で欧米諸国とソ連との戦争が日本を舞台に戦闘の火蓋が切られていたことでしょう。すなわち戦後に起きたベトナム戦争や朝鮮戦争のように、日本国内を二分させる内戦が東京を中心に日本全国に広がっていたことでしょう。鎮圧に戦艦長門などが砲撃態勢を整えるほど事態は深刻になっていたはずです。もちろん故郷、そして祖国を思う皇道派青年将校たちは、大掛かりな内戦に持っていくなど露ほどにも考えていなかったことでしょう。しかし皇道派青年将校たちの思いとは全く関係のない国際金融資本、そして中国に活路を見出す陸軍統制派の戦略とは無縁のコミンテルンが、互いの利権を懸けて日本を内戦の舞台にするのは必定だったのです。

二・二六事件では何故厳しい処罰が行われたか?

二・二六事件では青年将校たちに厳しい処分が行われました。クーデター決行内容が、二・二六事件の雛形とされる三月事件や十月事件、その翌年に発生した五・一五事件では、首謀者は極刑にはならなかったことと比べると非常に重い処分でした。青年将校たちに弁解の余地は全く与えられず、即銃殺刑となりました。皇道派青年将校が天皇を側近の奸物からお救いするといったことを大義名分にして行ったことに対し、昭和天皇自ら激怒し、結果として天皇に刃を向ける国賊となってしまったため、極刑に処せざるを得なかったことが大きいとされています。しかし本当は日本陸軍とは無関係な2大勢力の内戦に発展するのを阻止するためでした。青年将校を厳しく処分することで、内戦に利用される危険性を回避したのです。

二・二六事件に関与した下士官以下の兵士の処分とは

二・二六事件に関与した下士官以下の兵士たちは投降することで刑を免れることになりました。しかしその後の中国大陸進出への徴兵に、一般の兵士とは異なり頻繁に召集されたのです。一般の兵士の場合、徴兵の回数が1~2回ほどで済むのがほとんどであったのに対し、二・二六事件への従軍経験者は数回あるいはそれ以上の頻度となりました。二・二六事件への従軍は自らの意思ではなかったとはゆえ、統制派の上官により苛め抜かれたのです。事件に関与した下士官以下の兵が不遇の時代を迎えたのには理由がありました。それは従軍していた下士官たちが国際金融資本の手先に作り変えられているのではないかという疑いの元、コミンテルンによって徹底的に警戒されたからです。

二・二六事件は防ぐことはできたのか

二・二六事件は陸軍内に皇道派と統制派の2つの派閥が出来ていた時点で防ぐことは難しかったといえるでしょう。陸軍内で分裂がある限り、外部からの資本によりどちらか一方へ資金が提供されれば、クーデターに発展しかねません。また実行部隊に対して決行するように教唆する思想家の存在も無視できませんでした。最初はクーデター決行まで踏ん切りがつかない状況でも、青年将校たちが困窮している経済基盤に資金投入で変化を与えることで心理的に大きく揺さぶることが可能となります。世界恐慌と日本国内の不況、青年将校の多くが故郷とする東北地方での自然災害、それによる生活破綻からくる農村の娘たちの身売りといった事態がある中で、それを少しでも救済する資金が流入したらどうなるでしょうか。それは青年将校たちにとっては引くに引けないクーデター決起への引き金となったことでしょう。

歴史に残るクーデターには必ず資金の流れがつきまとうものである

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二・二六事件は表向き陸軍皇道派によるクーデターでありますが、実はコミンテルンと国際金融資本双方の日本国内での利権争いのためのトリガだったのです。規模の大きい事件の背後には対立する二派を利用した外部資本の利権が絡んでいることが珍しくありません。

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