日本の歴史

世界遺産「姫路城」を解説!誰が築いた城?城主は?いつ建てられたの?

徳川家臣で守りは万全!江戸時代の姫路城の城主とは?

1600年に起きた関ヶ原の戦いの後の最初の姫路城主は、戦いで功績を挙げた池田輝政(いけだてるまさ)でした。

この一帯は52万石播磨姫路藩となり、それに伴い、徳川家康の次女の婿にもあたる池田輝政は初代姫路藩主となります。

関ヶ原の戦いで、西軍(豊臣側)についた武将たちは、徳川の時代に入ってから、反逆に転じないよう厳しくけん制されていました。その拠点のひとつとなったのが姫路城。輝政は家康の命を受け、姫路城の大改修を慣行。この時代に、現在のような白く輝く美しい城に建て替えられたのです。

その後十数年間、姫路城は池田氏によって守られてきました。1617年、輝政の孫にあたる池田光政が城主となりますが、当時はまだ幼かったため、池田氏は鳥取藩へ。代わりに姫路城の守りを固めたのが本多氏です。

本多氏といえば、徳川四天王のひとり本多忠勝の血筋。忠勝の息子の本多忠政(ほんだただまさ)が、姫路城主となります。

その後もずっと、姫路城は本多氏や松平氏など、徳川に縁の深い一族が城主として入城。各大名たちに睨みを利かせるとともに、西日本方面の交通の要衝としての役割も果たしていきました。

幕末から明治・現代に伝わる姫路城

200年以上続いた徳川の世が終わりに近づいたころ、時代は江戸から明治へ。幕末期に城主を務めていたのは徳川家臣の酒井氏でした。

鳥羽・伏見の戦いが起きたころ、姫路城主を務めていた酒井忠惇は徳川の幕臣であり老中を務めていたため、徳川慶喜と行動を共にしていたと伝わっています。

新政府軍の勢いは姫路城周辺にも届き、姫路城総攻撃の可能性も出てきました。姫路城の留守を守っていた家臣たちは城の明け渡しを決め、かろうじて姫路城総攻撃は回避されます。

明治時代に入ると、姫路城周辺には明治新政府の軍事施設が置かれ、あわや城郭解体かと思われましたが、周囲の有志たちから、この城を壊さないでほしいと叫ぶ声が上がりました。姫路城は城を愛する人々によって守られ、1910年には明治の大改修工事が行われます。

大正時代には、城郭の一部が公園として整備され、一般に公開。昭和に入ると国宝に指定され、史跡として保全する動きが強まります。第二次世界大戦下では、爆撃対象とならないよう、城に黒い綱で覆って目立たなくしたこともあったのだそうです。

多くの人の尽力により焼失を免れた姫路城。昭和、平成の大改修を経て、現代にいたります。その白鷺のような美しい姿は見る人を魅了し続け、1993年(平成5年)、世界文化遺産に登録されました。

意外と知らなかった!姫路城の歴史と城主たち

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姫路城自体があまりにも有名すぎて、誰が建てた城なのか、今まで意識したことがありませんでした。応仁の乱の中心となった一族や、天下人、徳川の幕臣など、歴史に名を遺す有名人たちが城主を務めていたことは驚きです。また、あの優美で壮大な天守閣は、長年姫路の人々によって守られ続けてきた証なのだということも分かって、姫路城のことがますます好きになりました。また機会があったら、姫路城下を訪れてみたいと思います。

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