実はこんなにあった!中国の歴史上、首都となった都市についてまとめてみた
三国志にも登場する後漢の都、洛陽
中国の北部にあたる華北地方は古くから発達した地域でした。華北の重要拠点は渭水盆地と中原です。中原を抑えるには渭水盆地では距離が遠く不便でした。そのため、西周や前漢、唐などは中原に位置する洛陽を副首都として機能させます。
前漢を滅ぼした新を短期間で滅ぼした劉秀は、赤眉の乱を鎮圧し漢を復興させました。劉秀が建てた漢を後漢といいます。光武帝となった劉秀は、戦乱で荒れ果てた長安ではなく、洛陽を首都として国家の再建をはかりました。
洛陽は後漢が滅び、三国の魏がとってかわった後も都であり続けます。魏晋南北朝時代の北魏も洛陽に都をおきました。洛陽は唐の時代も副首都として繁栄しますが、大運河沿いの開封が発達すると都とされることはなくなります。
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大運河の重要地点として栄華を極めた北宋の都、開封
隋の煬帝は大運河を開き、経済の中心である長江流域と政治の中心である黄河流域を結び付けました。開封は大運河沿いの物資の集散地として繁栄します。唐を滅ぼした朱全忠は後梁を建国し都を開封におきました。
後梁に始まる五代十国の混乱を経て成立した宋の時代は、商業活動が活発化した時代です。唐の時代には官営の市で交易することが主流でしたが、宋の時代には商人たちによる自由な取引が行われました。そのため、今まで見られなかった夜市も開催されるようになり、開封は繁栄を極めます。
「清明上河図」は人々でにぎわう開封やその周辺地域を描いた絵。絵の中には海上交通の様子や西方からの物資を運ぶラクダなどが描かれ、当時のにぎやかな様子が伝わってきます。元の時代に、大運河が開封を通過しないルートに変更されたことにより、開封は徐々に衰退しました。
元、明、清の時代に都が置かれ、現在の中華人民共和国の首都となった北京
中国の北方、遊牧民との国境地帯の付近にできたのが北京です。戦国時代には七雄の一つである燕の都でした。宋の時代は北方遊牧民の国である遼が占領します。その後、北京は金の首都の中都となりました。
モンゴル帝国が金を滅ぼしたのち、5代目の大ハーンとなったフビライは国号を元と定め、中都を大都と改名し元の首都とします。大都は広大な領域を支配した元の都だったので、様々な国の人が行き交う国際都市となりました。
元の滅亡後、次の王朝である明の都は南京に置かれ、大都は北平と改名されます。しかし、クーデタで政権を握った永楽帝が北平に遷都。以後、北平は北京と呼ばれるようになりました。
永楽帝の造営した紫禁城は今も北京に残され、中国の象徴となっています。17世紀に明を滅ぼした清も都を北京に置き続けました。1949年、中華人民共和国の首都となり現在に至ります。
華中や内陸に置かれた都
古代には黄河流域が政治・経済ともに中国の中心地でした。後漢の滅亡後、三国時代や魏晋南北朝時代に長江下流域にあたる江南の開発が始まります。三国の一つである呉やそのあとに続く南朝は長江下流の建業(現在の南京)に都をおきました。北宋滅亡後、金の圧力から逃れるため南宋は建業よりさらに南の杭州に遷都します。また、長江の上流に位置する四川盆地には蜀が都をおいた成都がありました。
三国の呉や江南の諸王朝が都をおいた建業
後漢が滅亡し中国各地に群雄が割拠するようになりました。群雄の一人である孫権は長江下流域の建業を本拠地として領土を拡大します。229年、孫権が皇帝となると建業は正式に呉の都となりました。
呉の滅亡後、建業は都ではなくなりましたが、311年の永嘉の乱で華北が遊牧民族の匈奴に占領されると、晋の皇帝一族の一人である司馬睿(しばえい)が江南に逃れ、晋を再興しました(これを東晋という)。東晋は建業を建康と改め都とします。建康は南北朝時代の南朝の都として栄えました。
元の時代の末期、紅巾の乱がおきると群雄の一人である朱元璋は建康を拠点として自立し、応天府と名付けます。永楽帝による北京遷都後は、副首都として扱われ南京と呼ばれるようになりました。
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南に逃れて繁栄を維持した南宋の都、杭州
杭州は古代から江南地方の物資集散地として栄えていました。魏晋南北朝時代に江南の開発が進むと、杭州はさらに繁栄します。隋唐の時代、杭州は大運河の終点として交通の要衝となりました。ちなみに、日本から送られた遣唐使は杭州に上陸することがおおかったため、日本人にもなじみのある港町となります。
1126年、靖康の変で北宋が滅ぶと皇帝の弟である高宗が江南に逃れ、宋を再興しました(これを南宋という)。杭州は南京よりもさらに南に位置。北方民族の圧力をかわすのには南京よりも適しています。
南宋の時代、杭州は仮の都を意味する臨安とよばれました。1276年、フビライ=ハーンは杭州臨安府を制圧し南宋を滅ぼします。杭州は都の地位は失いますが、中国南部の経済都市として発展を続けました。