日本の歴史昭和

経済成長の影の部分である公害と日本を揺るがした四大公害病について解説

四日市ぜんそくの原因

1960年代に入って日本が重工業化していくと伊勢湾に面している四日市市には日本初の石油コンビナートが建設されるようになり、中京工業地帯の中心地として工業都市として栄えることになります。

しかし石油コンビナートの排気ガスはそのまま空気中へと放出していたこともあり、工場での生産途中で生産された大量の硫酸ミストが大気中に拡散。その結果四日市市の塩浜地区は原因不明のぜんそくに悩まされた人が続出。これをおかしいと判断した研究家が調査したところ石油コンビナートが原因と判断しました。

四日市ぜんそくの被害

四日市ぜんそくの被害は硫酸ミストによって気管支に炎症を起こしてしまい最終的にはぜんそくとなるというものでした。

このぜんそくによって喉が苦しくなったり、激しい喘息の症状を出してしまい、最悪の場合には呼吸困難になったたり、肺に障害を負ってしまい死亡するケースも現れました。

四日市ぜんそくは1976年に1140人を患者として認定。そのうちの600人がこの公害病によって亡くなったとされています。

四大公害病の裁判とその後

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こうして多数の被害者を出した四大公害病でしたが、1970年代に入ってくるとこの四大公害病が日本全国に知れ渡ることになり、被害者たちは集団で公害を起こした原因である企業に対して訴訟を起こしました。

その結果は四大公害病の全てが被害者が勝訴。四日市ぜんそくは被害を出した企業が曖昧だったそうですが、石油コンビナートを稼働していた会社全てに賠償金の支払い命令を出したそうです。

その後日本政府は高度経済成長で疎かになっていた公害に対して力を入れていくようになり1974年には公害にあった被害者に対して公害健康被害補償法が成立。

さらに企業と市町村が協力して環境の保全に取り組むようになり、今では水俣湾は元の綺麗な海に戻り、四日市市は綺麗な空気に戻りました。

公害を見て日本の未来を考えよう

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公害は日本の経済成長もあり、1970年代まではあまり認識されてはおらず、その結果とんでもない惨事を招いてしまいました。

今でも環境について考えなければなりませんが、もし対策を講じなかったらこうなってしまうということを四大公害病は教えてくれたのかもしれません。

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