室町時代戦国時代日本の歴史

「元の木阿弥」の由来は?元となった筒井家とその誕生秘話を解説!

信長に臣従

1571年、この年に筒井家は正式に織田家に臣従。この時松永久秀も同時に和睦したため領土は分けられることとなりました。

しかし、翌年には再び松永久秀は信長に対して謀反。これはすぐに降伏して終わるのですが信長はここから筒井順慶の方を重視し始めたの1576年には筒井順慶に大和一国の支配を正式に認め、さらにこれを機に再び裏切った松永久秀を信貴山の戦いで討伐すると完全に大和一帯を手中に収めたのでした。

洞ヶ峠を決め込む

大和一帯を収めることが正式に認められてめでたしめでたしとなるところなんですが、現実はそう甘くはありません。1582年に信長は家臣の明智光秀によって討死。いわゆる本能寺の変によって天下の行方は再びわからないものとなってしまいました。

実はこの本能寺の変で一番割りを食ったと言っていいのが筒井順慶。この時なんと彼は明智光秀の傘下として働いており、光秀とは婚姻関係を結んでいるまさしく仲間に一番乗りでなるような関係だったのです。

しかし、どう考えても光秀は謀反人。もし彼に味方となって討伐されたら自分のこれまで積み上げてきた実績も筒井家の名跡も全てパーとなってしまいます。さらにこの時毛利討伐から急いで戻ってきた羽柴秀吉が山崎の地にて決戦を行う動きとなると筒井順慶は秀吉に対して恭順するという誓紙を送って恭順の意思を示しました。

でも明智光秀をそのまま見捨てるわけにもいかない。そのため筒井順慶は光秀には付かないものの、決戦にも付かないという曖昧な態度を取り始めのらりくらりと静観しました。

光秀はなんとか味方に引き込もうと洞ヶ峠に出陣するのですが、このことが後の世までだんだん意味が変わっていき筒井順慶が洞ヶ峠で静観したとされ後の日和見主義のことわざ「洞ヶ峠を決め込む」として残されるようになったのです。

こうしてことわざをいつの間にかふたつ生み出した筒井順慶はなんだかんだで秀吉に正式に臣従して大和一帯を確保。これに疲れたのか1584年に36歳の若さで亡くなりました。

実は戦国時代に生まれた!?色々なことわざについて

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元の木阿弥は戦国時代に生まれたことわざなんですが、実はこれ以外にも戦国時代に生まれたことわざはたくさんあるのです。

小田原評定

会議がグダグダとなってしまって収拾がつかなくなってしまうという意味である『小田原評定』

このことわざが生まれたのは戦国時代のクライマックスである小田原征伐の時でした。

小田原征伐が行われていた際、関東地方をほとんど制圧していた後北条氏内では前当主の北条氏政を始め、小田原城に籠ってなんとか耐えしのぐのか、はたまた一か八かの賭けに出て豊臣家を倒すかどっちを取るかで大揉め。最終的には小田原城であーだこーだ決めているうちに後北条氏が滅んでしまったということでつけられたんだとか。

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