地動説の主張
地動説といえばガリレオが主張したものだと思われがちなんですが、実は最初に地球は太陽の周りを回っていると言い出したのはポーランド出身のニコラウス・コペルニクスという人。彼の地動説の主張がいわゆるこれまでの考えがガラリと変わることであるコペルニクス的展開という言葉となるのですが、キリスト教は宇宙や地球は神が6日間かけて作ったものということを信じていることもあり地動説はかなり少数派の考えでした。しかし、ガリレオはこの地動説という考え方を支持し、上で取り上げた木星の衛星の発見や金星の満ち欠けの発見などで地球は太陽の周りを回っていることを確信したのです。
1回目の異端尋問
しかし、彼の考えはもちろんキリスト教からしたら邪魔な存在。地動説というものを認めてしまったらこれまで信じていたキリスト教の宗教観がガラリと変わってしまうとんでもない事態となってしまいます。
そこでカトリック教会は彼を呼び出して宗教裁判を開始。多くの人が見守る中ガリレオは地動説は正しいということを科学的に主張。しかしカトリック側は望遠鏡で見たことは全て虚像のものであり、真実ではないとしてこれを無視。最終的にはガリレオが敬虔なクリスチャンだというにもかかわらずガリレオが聖書の内容を批判したとして異端尋問を開始。
この結果ガリレオは「これから先地動説という考え方は全面的に破棄してここから先地動説について質問されようとも否定し主張しない」という判決を受けてしまいます。
さらにこの裁判の後、地動説を最初に唱えたコペルニクスの『天球の回転について』も一時閲覧禁止の措置がとられキリスト教社会が完全に地動説について否定したのでした。
もちろんガリレオはこれに反発したとは思いますが、当時のカトリック教会は宗教改革が起こっていたものの権力は絶大なもので逆らえば死刑は確実。友人の忠告もありガリレオはしばらくの間活動を控えることを余儀無くされました。
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2度目の異端尋問
こうして地動説を唱えることができなくなってしまったガリレオでしたが、彼は諦めることなく『天文対話』という本を1631年に出版しました。これは前のような完全に地動説を唱えているものではなく、あくまでも地動説と天動説を一つの仮説として紹介しているものであり、キリスト教が茶々入れるものではないのですが、1633年にはローマ教皇庁は再びガリレオを招集。カトリック教会は彼が地動説の主張を放棄したのにもかかわらず再び地動説を唱え始めたとして訴えを起こしていたのです。
ガリレオは地動説自体を主張することは放棄していないと主張していたのですが、カトリック教会側はガリレオが有罪になったことを証拠としてこれが通ってしまい結局ガリレオは最終的に有罪判決を受けてしまいます。
ガリレオには前よりも厳しい刑が言い渡され地動説の主張の完全なる放棄と無期刑となり、教会から後を立ちました。
その後、ガリレオは無期刑ではなく軟禁に減刑されたものの、天文対話は禁書目録に登録され一般人の目には触れないようになり、ガリレオは死ぬまで家から出ることができず、そしてガリレオは1642年にひっそりと亡くなったのです。
ガリレオが残した意義
ガリレオが亡くなった後も彼の名誉は回復せず、カトリック教徒として埋葬されることはありませんでした。しかしガリレオの支持者であったトスカーナ大公はガリレオの葬儀を延期にしてなんとかカトリック教徒として埋葬されるように奔走しますが、結局その許可が出されたのは1737年のことでした。
そして時代は流れ1965年。当時のローマ教皇であるパウロ6世はガリレオの裁判に言及したことによって裁判の見直しが図られるようになり1992年にヨハネ・パウロ2世は遂にガリレオの裁判は誤りであることを認め、ガリレオに謝罪するといいました。ガリレオが亡くなってから約350年。遂にガリレオの名誉は完全に回復したのです。
その後2008年にベネディクト8世はガリレオの業績を称え、そして地動説を正式に公認。ガリレオが地動説を唱えた意義はこれまで宗教に縛られていた科学というものを真っ向から否定したものであり、しかし、ガリレオが宗教とは違う考えを主張したことは無駄でなく、ここから先哲学者や科学者は宗教観にとらわれない研究を行うようになり、デカルト・ニュートン・ベーコンなどによる科学革命と呼ばれる一大変革によって世界の科学は大いに発展することになったのです。