築山殿の最期…いまだに残る事件の謎
信長の命令により、築山殿と信康に対して家康は手を下したというのが通説です。しかしそこには多くの謎があり、いまだにはっきりとした事実は解明されていません。とはいえ、築山殿と信康は処刑されることとなりました。いったいどんな最期を迎えたのか、この項目では彼女の最期をご紹介します。
信長が家康に対して処刑を命じた?
徳姫の手紙を読んだ信長は、家康の家臣・酒井忠次(さかいただつぐ)を詰問しました。しかし、忠次はまったく弁解することができず、そのまま退出してしまったと伝わっています。そして、これが築山殿母子を処刑するという決定につながってしまったのでした。
家康は、信康を岡崎城から別の城へと移し、また別の城へと転々とさせます。信康は弁解の機会を求めたようですが、それは実現しませんでした。
そして築山殿もまた、岡崎城を出立します。家康に浜松城へ呼ばれたとも、息子の元へ向かおうとしたとも言われていますが、これが彼女にとっては死出の旅路となりました。
築山殿の無残な最期
道中、築山殿を乗せた輿は急に止まります。そして、家康に命じられてお供をしていた野中重政(のなかしげまさ)が、やおら武器を手にして築山殿を刺し殺してしまったのでした。
一説には、自害を求められた築山殿は、それを拒み、抵抗しながら殺されたと言われています。ただその一方で、従容と死を受け入れ、凛として自害して果てたとも伝わっているのです。
果たしてどちらが本当の築山殿の最期なのでしょうか。彼女が、信康を溺愛し徳姫を遠ざけ、武田と内通した悪女であるならば、前者の説もありでしょう。しかし、殺害した野中自身はその後隠棲し、築山殿の侍女は入水して後を追ったとも言われています。そうだとしたら、築山殿はそこまでの悪女だったと言い切れないのではないでしょうか。
ただ、真実は闇の中です。
信康の最期と信康事件の真相について
築山殿の死から間もなく、信康も切腹させられました。21歳の若さでした。
それにしても、築山殿と信康の死には不可解な点が多く見受けられます。
信長の命令だったという説が通説でしたが、今では別の説も有力になってきているんですよ。
それは、そもそも家康と信康の親子仲に問題があったということなのです。
家康は浜松城を拠点にしていましたが、信康は岡崎城を拠点としていました。そうすると、家臣団も2つに分裂します。そして、それは徐々に対立という構図になってきていたようなのです。
浜松と岡崎の対立が、母子の死を招いた?
かつて、三河一向一揆という宗教がらみの一揆に際し、家康の家臣団は分裂して争ったことがありました。家康にとっては命の危機とも言える事態に直面したわけですが、家康は信康家臣団と自分の家臣団との間に生じた少しの亀裂に、三河一向一揆の再来をさせてはならないと思ったのかもしれません。そのために、やむなく信康を殺害するという選択をしたのだとも言われているのです。信康は勇猛な武将でしたが、時に横暴な振る舞いをすることがあったとも後に付け加えられているんですね。
それに加えて、武田氏とは元来パイプのある今川氏の血を引く築山殿は、生かしておくわけにはいかない状況だったのかもしれません。
家康にとっても、家を揺るがす不穏の種になりうる可能性があるとはいっても、築山殿と信康を殺すという決断は重いものだったと思われます。ただ、何かが起こる前に手を打たねばならないことは、家康自身がこれまでの人生経験でよくわかっていたのでしょう。
築山殿の人生は何だったのか
やむなき理由があったとしても、築山殿の最期はあまりにも無残です。彼女の生涯を追ってみても、息子のためにしたことが嫁の不信を招き、それが悲劇へとつながってしまった可能性があるということだけで、彼女が悪女であったことの確証はありません。後に天下人となる家康の栄光の歴史の中で、彼女たちの殺害が唯一の後ろ暗いところでした。だからこそ、彼女を悪女に仕立て上げる筋書きがつくられ、それが通説となってしまったのかもしれません。