岡崎城に入ることもできず、両親は自害という悲劇
このまま、夫・家康のいる岡崎城に入るのが当然と思われた築山殿ですが、何と、岡崎城に入ることはできませんでした。城の近郊にある「築山」という場所付近に館を与えられ、そこに住まうことを命じられたのです。家康の正室であるとはいえ、今川宗家にきわめて近い血筋である築山殿は、やはり今川の者として見られており、警戒されていたのかもしれません。しかし、それにしても屈辱的なことだったはずです。
この時住むようになった地名から、「築山殿」という呼び名がつけられたと言われています。「築山御前(つきやまごぜん)」と呼ばれたとも伝わっていますね。
しかも、築山殿の嘆きに追い打ちをかけるような事態が発生します。
駿府にいた父・関口親永と母が、家康が今川を裏切ったことを責められ、内通するのではないかという疑いもかけられて自害してしまったのです。
夫・家康も独立のためにやったことであり、かといって今川氏は自分の実家も同然。築山殿は、表立っては誰のことも怨むことができませんでした。
最愛の息子の結婚と明らかになった夫との断絶
永禄10(1567)年、息子・信康が織田信長の娘・徳姫と9歳で結婚しました。3年後に元服した信康は、家康から岡崎城を譲られて城主となります。家康は浜松城に移り、この時築山殿は信康に迎えられてようやく岡崎城に入ったとされていますよ。
しかし、本来なら夫のそばにいるのが正室というもの。なぜ浜松城に行かなかったのでしょうか。それとも、呼ばれなかったのでしょうか。すでに離縁されていたのではないかという説さえも存在し、おそらく、築山殿と家康は夫婦としては機能していなかったと考えられます。
夫とは心も体も離れてしまった築山殿。彼女にとっての生きる望みは、息子・信康だけとなっていったのかもしれません。そして、それがやがて悲劇を引き起こす要因となってしまうのです。
嫁姑問題がこじれ…下される処刑命令
織田信長の娘・徳姫を妻に迎えた信康ですが、いっこうに男児に恵まれません。そのことを危ぶんだ築山殿と、徳姫との間は徐々に険悪なものとなっていきます。それがやがて信康・徳姫夫婦の仲までも悪化させ、ついには徳川家と織田家の問題へと発展してしまったのでした。築山殿はあらぬ嫌疑をかけられ、夫の命令によってこの世から抹殺される運命を辿ります。
息子のためにとしたことが嫁の心を傷つける
信康と徳姫との間には、天正4(1576)年、翌5(1577)年にそれぞれ姫が誕生しました。このように、当初、夫婦仲は良好だったのです。
しかし、築山殿には懸念が生じていました。
「このまま信康に男児が生まれなければ、跡継ぎ不在となってしまう…」
それだけは避けなくてはならないと、彼女は信康に側室をあてがったのです。
武家の男が跡継ぎを残すために側室を持つことはよくあることでしたが、当然、正室からすれば心中穏やかではありません。しかも、選ばれた側室は、かつて武田氏に仕えていた者の娘だったのです。徳姫は織田信長の娘。信長はいまや武田氏を滅ぼそうとしていたわけですから、なおさら不快に思ったはずです。
こうして、徳姫と築山殿との間には亀裂が生じてしまったのでした。
信康と徳姫も不仲に
その上、徳姫と信康の仲もみるみるうちに悪化していってしまいました。こうしてみると、現代の嫁姑問題に通じる部分もあるかもしれません。もしかすると、信康が築山殿を庇うようなことを言ったのではないかとさえ推測してしまいますよね。
信康・徳姫夫婦の仲が深刻な状態だということは、双方の親にもすぐ知れるところとなりました。家康や、あの信長までもが仲介しようとしたという説もあるんですよ。しかし、それでも夫婦仲の修復には至らなかったのです。そして、これが謎多き事件を引き起こすことになってしまったのでした。
徳姫の訴えを聞いた信長が、処刑命令を下す
信康との不仲に我慢がならなくなったのか、徳姫はついに父・信長に手紙を出します。そこには、12ヶ条に及ぶ築山殿と信康への弾劾が書かれていたのです。築山殿が自分たちの仲を裂こうとしているとか、医師と密通しているとか、信康がいかに横暴かということや、はたまた武田氏と内通しており、築山殿もそれに一枚噛んでいるという内容だったといわれています。
そして、これを読んだ信長は激怒。家康に対し、築山殿と信康を即刻処刑せよと命じたのでした。