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5分でわかる「曼荼羅」とは?意味や模様、世界観をご紹介!金剛界や胎蔵界も解説

2-5.大日如来を中心に仏教の世界観を表した【胎蔵界曼荼羅】

胎蔵界曼荼羅の画像

【胎蔵界曼荼羅】は大日如来を中心にして、同心円状に多くの如来や菩薩たちが描かれたもの。これが仏教の世界そのものを表しているということになります。

赤い蓮の花の中央には大日如来が描かれ、花びらの部分には、まるで大日如来を取り巻くように弥勒菩薩や阿弥陀如来など8体の仏様が描かれていますね。

さらには蓮の花の周囲には遍智院や文殊院など12ものカテゴリー分けされた仏様たちが400尊もいらっしゃるのです。

2-6.大日如来のすべてを救済する愛

「胎蔵」という言葉の意味は、大日如来の慈悲が母親の胎内に例えられているだけでなく、全ての生き物たちの苦しみや悩みを救済する愛を象徴したもの。ということになります。

大日如来の慈悲の光が、この世をあまねく照らし、その他多くの仏様たちがそれをお助けしている。と考えれば、なんともありがたいことですよね。

3.曼荼羅の歴史とはどんなもの?

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ここで曼荼羅の歴史について解説していきましょう。インド仏教の教義から生まれた曼荼羅が日本へ伝わり、どう変化していったのか?そして現在はどのようにして作られているのか?できるだけわかりやすくお伝えしたいと思います。

3-1.2つの経典をひとつに合一、そして日本へ

実はインドで生まれた密教経典は2つあるとされていて、さきほどご紹介した「金剛頂経」と「大日経」の2種類が存在していました。

インドから中国~東南アジア~朝鮮半島へと伝わり、最終的に日本へも伝来されるのですが、同じような教義の経典が2つもあるのは無駄ですし、ややこしい。

そこで8世紀に唐の高僧だった恵果(けいか)が、この2つの経典をひとつにまとめたそうです。といっても完全にひとつになったわけではなく、まとめきれなかった部分を差別化するために、2つの曼荼羅を一対にすることにしました。

これが先ほど述べた「両界曼荼羅」で、「大日経」が「胎蔵界曼荼羅」、「金剛頂経」が「金剛曼荼羅」のことを表しているそう。空海はこの両界曼荼羅を授かった上で日本へ帰国したそうです。

3-2.日本へ広まった密教と曼荼羅の役割

空海が唐から日本へ持ち帰ってきた曼荼羅はすでに失われていて現存していません。

しかし京都の東寺には、その時の写本である彩色画が現存しており、製作が9世紀後半のものといわれていますから、まさに1200年以上経過した当時の曼荼羅だということになりますね。

空海や最澄が密教を日本へ広めようとした際、従来の顕教と呼ばれた仏教とは解釈が違うため、わかいやすいように曼荼羅をフル活用したとされています。

密教と顕教の違いとはズバリ、成仏するための速度の違いです。顕教は悟りを開くのがなかなか難しいため、亡くなってからしばらく経たないと成仏できません。(だから亡くなった方を仏様といいますよね。)

3-3.密教が日本に広まった理由

ところが密教は、生きているうちから成仏できる可能性があると教えています。すなわち生きている状態で成仏できるということ。現に空海自らが即身成仏して、高野山で今なお生きているとされていますから。

しかし当時の人々にとっては、「生きているうちに成仏できる?そんな馬鹿なことが。」という思いしかなかったことでしょう。

そこで空海や最澄は、言葉で理解させるより、目で見せた方が人の理解は早いものだと考えました。それが密教世界を図式化した曼荼羅を活用することだったのですね。

曼荼羅図で密教の世界観を目の当たりにした人々の多くが帰依し、密教が日本へ急速に広まっていくことになったのです。

3-4.人々の願いを叶える曼荼羅

仏の教えをわかりやすく人々に訴えた曼荼羅ですが、平安時代から中世にかけて末法思想が広まると、その性格が徐々に変質していくことになります。

末法とは、仏法の本質が衰えて世の中が乱れるということ。人々は不安定な世相を恐れていたわけですね。そこで人々は曼荼羅に描かれている大日如来に対して願掛けを行うようになりました。

「平穏な暮らしが続きますように」「食べることに困りませんように」そういった願望を曼荼羅に込めたのです。それまで仏法を学ぶ教科書的な存在だった曼荼羅が、この末法思想をきっかけに信仰の対象となったのでした。

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明石則実