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5分でわかる「曼荼羅」とは?意味や模様、世界観をご紹介!金剛界や胎蔵界も解説

3-5.明治以降、美術品と化す曼荼羅

明治時代初期に怒った廃仏毀釈(仏教文化を壊す動き)によって、多くの神社仏閣が破壊されました。堂宇は倒され、仏像は壊され、石仏も割られていきました。

曼荼羅も同様に破壊活動の被害をこうむり、焼かれたり破かれたりしたそうです。そんな中、難を逃れた仏教美術品は高価な骨董品としての価値が見出されることになりました。

そういった意味では曼荼羅や来迎図も一種の美術画ですから、市場に流通するうちに高値が付く場合もあったそうですね。

4.曼荼羅が日本に与えた影響とは?

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空海が日本へ持ち帰り、密教とともに広めた曼荼羅の役割は、それだけではありませんでした。「難しい教義を誰にでもわかりやすく伝えることができる」という単純明快な手法こそが、様々な影響をおよぼしたのです。

4-1.密教だけではない?新興宗教にも曼荼羅が大活躍!

密教の世界観を表した曼荼羅ですが、このようなわかりやすい手法を黙って見過ごすはずがありません。仏教の中でも新興といわれる宗派が、この曼荼羅をフル活用したのです。

中世初めに興った仏教宗派である浄土宗(浄土真宗含む)は、今や日本の最大宗派となっていますが、広まった一つのきっかけとして、「浄土曼荼羅図(じょうどまんだらず)」を用いて布教に努めていたということが挙げられるでしょう。

1237年に浄土宗西山派の僧証空が、奈良の當麻寺(たいまでら)にあった曼荼羅の原本を写し取り、日本中へ広めたのです。

4-2.「曼荼羅」は最高のプレゼン資料となった

浄土曼荼羅図の画像

「浄土曼荼羅図」の中央に描かれているのは、大日如来ではなく浄土宗の本尊である阿弥陀如来。密教と違って「西方極楽浄土」の様子を描いています。構図も平面的や幾何学的な感じがまったくなく、より写実的となっていることに注目です。

また、極楽浄土では壮麗な建物が立ち並び、華やかな光景が描かれており、図の周囲には極楽を思い浮かべるための逸話や、極楽へ往生する様子が所狭しと表現されています。

「極楽へ往生すると、こんないいことがある。極楽へ行けば現世の苦しみもなくなる。」と人々に訴えかけるのには最高のプレゼン資料になったことでしょう。

まるで絵本を読むような、わかりやすい構図で視覚に訴えかける方法や、「念仏を唱えるだけで極楽往生できる」といった単純な教えを駆使して、浄土宗は全国へ広まっていったのですね。

4-3.江戸時代の絵画に影響を与えた曼荼羅

曼荼羅の存在が与えた影響は、何も仏教だけに留まりませんでした。そのわかりやすい構図は、後世の日本の絵画にも影響を与えています。

例えば、江戸時代に描かれた絵画「武田二十四将図」や「徳川十六神将図」などですね。その構図に注目です。

武田二十四将図の画像

徳川十六神将図の画像

なんだか曼荼羅の構図とどこか似ていませんか?主人公である殿様を上座に据え、その下方には家臣たちが脇を固めているという形。まさに「大日如来とそれを取り巻く菩薩たちの姿」と非常に似通っていると感じるのは筆者だけでしょうか?

4-4.近現代の絵画も曼荼羅の影響を受けていたケースが

そして極めつけはこの作品、「興亜曼荼羅(こうあまんだら)」という絵画ですね。

興亜曼荼羅の画像

1940年に和田三造という画家が描いたものですが、当時の第二次近衛内閣が構想した大東亜共栄圏をモチーフとしており、「アジアの盟主は日本であり、日本が中心となってアジアを動かしていく。」というスローガン的な作風となっています。

インド人や中国人、東南アジア系の人々の雑踏の中に、ひときわ高く白い彫像が描かれていますね。馬車に乗った彫像の人物は、何やら誇らしげに旗か帽子を振っているのでしょうか。空を行きかう鳥も何だか飛行機にも見えますね。

当時の日本がアジアに対して持っていた一種の傲慢さが垣間見える作品なのではないでしょうか。

5.素晴らしい曼荼羅を拝観できるスポットをご紹介

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それでは、国宝や重要文化財に指定されているなど、曼荼羅の素晴らしさを実際に拝観できるスポットをご紹介していきましょう。といっても痛みやすく環境に影響されやすい文化財ですので、常時展示しているわけではなく、多くは特別展などで見られる場合が多いのですが。

5-1.高野山金剛峰寺【血曼荼羅(絹本著色両界曼荼羅図)】

国の重要文化財に指定されており、平安時代末期に補修、彩色されたものだと伝わっています。

血曼荼羅の画像

この曼荼羅は日本で作られたものではなく、元々は中国の青龍寺にあったものを空海が日本へ持ち帰ってきたそうですね。それを平清盛が自らの血を混ぜて彩色したとされており、1186年に金剛峰寺へ奉納されたのだとか。

曼荼羅図を見ると、まるで全体が血のように赤く染まっており、ところどころ滲んでいるような感じを受けます。混迷し乱れた平安末期の世相を正そうとした、清盛の信念が感じられるかのようですね。

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