文治政治転換の背景とは
武家諸法度「天和令」で学問が中心の文治政治が強調されるようになった理由は何でしょうか。その理由の一つは、行過ぎた武断政治の結果、幕府が多くの藩を取り潰したため「どこの家にも属さない無職の武士」である浪人が増加したからです。
徳川家光死去の際、由井小雪に率いられた浪人たちが幕府には向かおうとした由井小雪の乱が起きました。刀を持ちながら、誰にもコントロールされていない浪人たちは、一歩間違うとテロリストになってしまうと言うことを示した事件だと言えます。
行過ぎた諸藩の取り潰しは、かえって幕府政治の土台を揺るがすと考えた幕府は、藩を取り潰すのではなく、上下関係を大事にする朱子学を浸透させることによって幕府を頂点とする秩序を作り出そうとしました。
当然、幕府の大名統制の基本である武家諸法度でも「文武忠孝を励まし」という一文が入り、学問中心が強調されます。文治政治は家宣以降の将軍たちにも継承されました。武断政治から文治政治への転換はおおむね成功したといえるでしょう。
主君が死んでも、家臣は死ぬな!殉死禁止の明確化
「天和令」のもう一つの注目点として、殉死の禁止を明文化したことがあります。殉死とは、主君が死んだときに家臣が後追い自殺をすること。追い腹ともいいます。以前は、殉死は主君への忠義の証と考えられ称賛されていました。
しかし、重要な役職を担っていた家臣が殉死すると、藩の政治が停滞・混乱してしまうことなどから、幕府は殉死を禁止します。これにより、家臣は主君個人に仕えるのではなく、藩や主君の家に仕えるべきであることを明示しました。
「天和令」が出される前、家綱時代の1688年に宇都宮藩主が死去した際、家臣が殉死したことがありました。幕府は宇都宮藩を2万石減封し、家臣の子を斬罪とする厳しい処置を行いました。これらのことを踏まえ、綱吉時代の「天和令」では武家諸法度で殉死の禁止を明文化したのです。
6代家宣時代、儒学者新井白石が起草した武家諸法度「宝永令」
6代家宣の時代に出された武家諸法度は、さらに儒教色が強まります。その理由は、家宣の武家諸法度である「宝永令」を起草したのが儒学者の新井白石だったからです。
「宝永令」は、はじめて和文で書かれた武家諸法度でした。「宝永令」は、他の武家諸法度にはない役人へのわいろ禁止や、役人がえこ贔屓をしてはならないことなどが盛り込まれています。
新井白石は将軍家宣を支え、正徳の治とよばれる政治改革を行いました。白石は綱吉時代に質が落とされた金貨である小判の品質を元に戻すことや長崎貿易で金銀が海外に流出することを防ぐため貿易ルールを変更するなど、綱吉時代の行き過ぎを是正します。
「宝永令」にあえて、役人のわいろ禁止などの規定を盛り込んだのは、白石なりの政治改革の姿勢を表しているのでしょう。武家諸法度の中でも特異な「宝永令」は、その後、8代将軍に就任した徳川吉宗によって破棄され、「天和令」の内容に戻されました。
江戸幕府は多くの「法度」を制定し、幕藩体制を維持していた
江戸幕府は武家諸法度以外にも多くの「法度」を出して全国支配を進めました。朝廷に対しては禁中並公家諸法度を制定し、天皇や朝廷の活動を制限。室町時代から戦国時代にかけて大きな力を持った宗教勢力には諸宗寺院法度や諸社禰宜神主法度を出し、本山や神社の本社を通じて全国の寺社を統制する仕組みも整えます。江戸幕府は武家諸法度をはじめとする、多くの「法度」によって日本をおさめていたことがわかりますね。
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