室町時代戦国時代日本の歴史

秀吉に迎えられた「竹中半兵衛」戦国一の天才軍師の短い生涯をわかりやすく解説

わずかな手勢で城を占領

半兵衛は、妻の父であり西美濃三人衆のひとりでもある安藤守就(あんどうもりなり)と共謀し、行動に出ました。安藤には兵を率いて龍興の居城である稲葉山城(いなばやまじょう/岐阜県岐阜市、現在の岐阜城)下を占領してもらい、自身は弟と部下たちたった16人ほどで城に向かったのです。

何でも、彼のやり方はこうでした。

もう一人の弟が稲葉山城内に詰めていたそうですが、その看病のためと称して箱に武器や防具をこっそりと詰めて入り込んだのです。そして弟の部屋で武装し、城をあっという間に乗っ取ってしまったのでした。龍興や腰抜けの側近たちは、何もできずに城から逃げ出しました。

実に鮮やかなやり方で城をあっという間にものにした半兵衛。

これが、後の伝説となる稲葉山城占拠事件でした。

あっさり城を返し、隠棲してしまう

しかし、半兵衛には下剋上という目的はなく、ただ龍興にお灸を据えたかっただけだったようですよ。ほどなくして龍興に城を返したのだそうです。

これで少しは心を入れ替えてくれるか…と思った半兵衛だったことでしょうが、残念ながら、その思いは裏切られます。

龍興はまったく変わらず、ついには信長に稲葉山城を奪われてしまったのでした。

もう自分にできることはないと思ったのでしょう。

半兵衛は龍興のもとを去り、近江(滋賀県)の浅井長政(あざいながまさ)の客将となります。しかしここも辞して、隠棲生活に入ってしまったのでした。簡単に言うと、浪人です。

これで武将としてのキャリアは閉ざされたかに見えましたが、やがて彼の運命を変える出会いが訪れます。次の項目でご紹介していきますね。

ついに巡り合った「主君」豊臣秀吉

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半兵衛の知謀についての評判を聞いていた織田信長は、ぜひ自分の家臣に加えたいと働きかけました。その際に、半兵衛のもとへ赴いたのが、まだ木下姓を名乗っていた豊臣秀吉だったのです。何度も半兵衛のもとを訪れた秀吉に、ついに半兵衛に応え、秀吉にならば、と出仕を決意します。その後の半兵衛は、秀吉の参謀として活躍していくこととなったのでした。

秀吉との出会い、そして「三顧の礼」で迎えられる

浪人となった半兵衛ですが、かつて彼の知謀にしてやられた織田信長は、ちゃんと彼のことを覚えていました。何とかして家臣に加えたいと、信長は家臣の豊臣秀吉に、半兵衛を連れてくるようにと命じたのです。

秀吉は、半兵衛のもとを三度も訪れて頼み込んだと伝わっています。これが、半兵衛が秀吉に「三顧の礼」をもって迎えられたという逸話ですが、この話の元ネタは三国志からなんですね。三国志最大のスーパーヒーローにして天才軍師・諸葛孔明(しょかつこうめい)が、劉備(りゅうび)の家臣となるくだりにおいて、劉備は三度彼のもとを訪れたとされているのです。

半兵衛は、もしかすると秀吉の器量を見抜いていたのかもしれません。信長にではなく秀吉に仕えるならば、という条件で出仕することを承諾し、信長も秀吉の下に半兵衛をつけることにしたのでした。

黒田官兵衛と親友となる

半兵衛は、信長の浅井・朝倉攻めの際には、かつて浅井家に属した人脈を利用して多くの敵方を調略し、相手の突き崩しに活躍しました。

その後、秀吉が出世し中国攻めの総大将に任ぜられると、それに従って西へと赴きます。ちょうど同じ頃、同じく軍師として有名な黒田官兵衛(くろだかんべえ/孝高/よしたか)も秀吉の下におり、2人は親友とも言える間柄となったそうです。2人の「兵衛」を取って、「両兵衛(りょうべえ)」と呼ばれることもありますよ。

この2人の絆の強さは、すぐ後に起こる有岡城(ありおかじょう)の戦いではっきりと表れることになります。

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