室町時代戦国時代日本の歴史

秀吉に迎えられた「竹中半兵衛」戦国一の天才軍師の短い生涯をわかりやすく解説

親友・官兵衛の息子を救う

信長の家臣・荒木村重(あらきむらしげ)が突然謀反を起こしたため、官兵衛は説得のために有岡城に向かいました。しかし反対に捕らえられて幽閉され、連絡が取れない状態となってしまったのです。

このことを、信長は官兵衛も謀反に加担したのだと解釈してしまいました。そのため、官兵衛の息子・松寿丸(しょうじゅまる/後の長政/ながまさ)を処刑せよという命令を下したのです。

そこで、半兵衛は別人の首を松寿丸のものとして差し出し、松寿丸本人を自ら匿うという決断を下したのでした。これは信長の命令に背くことでしたが、半兵衛にとっては親友とその息子の命の方がよほど大事だったのでしょう。

この後、半兵衛は官兵衛が救出される前に亡くなってしまうのですが、ずっと2人の身を案じつづけていたそうです。

望み通り、陣中で亡くなる

実はこれよりも前から、半兵衛は体調を崩していました。秀吉に従い中国攻めに参加はしましたが、とても戦えるような状態ではなかったようです。秀吉は半兵衛の体を気遣い、京都に戻って療養するようにと言いましたが、半兵衛は「武士は陣中で死んでこそ本望」と聞く耳を持ちませんでした。

天正7(1579)年、別所長治(べっしょながはる)を攻めた三木合戦(みきかっせん)では、凄絶な兵糧攻め「三木の干殺し(ひごろし)」が行われます。数年に及んだ戦いの中、ついに半兵衛の命の火が消える時がやって来ました。肺を病んでいたとも言われており、まだ36歳の若さでの陣没となったのです。

半兵衛という男のひととなり

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竹中半兵衛は、武将らしくない柔和さを持った人物でしたが、黒田官兵衛との逸話などからは、情に篤い男だったこともわかります。また、時にズバッと物を言い、それでいて冷静に物事を見ているようなエピソードも伝わっていますよ。彼にまつわる逸話をご紹介します。

官兵衛にズバリと物を言う

前述の通り、黒田官兵衛とは親友と言える間柄だった半兵衛。半兵衛が官兵衛の息子・松寿丸の命を助けた後、ようやく解放された官兵衛は、半兵衛が残した息子・竹中重門(たけなかしげかど)の後見人となりました。また、重門と成長した松寿丸改め長政は、関ヶ原の戦いでは隣同士の陣で奮闘したと言われており、子供の代になっても交流があったようですよ。

そんな半兵衛と官兵衛は、遠慮なく物を言い合う関係でもありました。

ある時、官兵衛が、秀吉が加増の約束を守らないことに不満を抱き、書状を証拠に抗議しようとしたことがありました。

すると、そばに控えていた半兵衛がやおらその書状を手に取り、火にくべてしまったのです。

半兵衛が言うには、「こんなものがあるから不満が生まれてしまうのだ。そして何より、(不満を持って抗議などすれば秀吉からの疑いを招いてしまうし)あなたのためにもならない」とのこと。

これで、官兵衛はぐっとこらえたといいますよ。

後に、秀吉が半兵衛に対して加増を約束する書状を渡そうとすると、半兵衛は「こんなものは不要です。もし息子が、父はこんなに殿に大事にされていたのに、自分は…などと思わないとも限りません。災いになりますから」と破り捨てたとも言います。

常に冷静さを失わず、将来に起こる可能性があることをすべて予見して言葉を発し、行動していたのでしょうね。

息子・重門への教育

また、息子の重門への教育についても、こんな逸話が伝わっています。

半兵衛が戦について重門に語っていると、重門は厠に行きたいと中座しました。

すると半兵衛は激怒し、「たとえ粗相をしてでも、こういう席を外してはならん!竹中の息子が戦の話に夢中になって粗相をするというなら、それは名誉なことなのだ」と息子を諭したそうです。

息子が将来、「あの竹中半兵衛の息子」という目で見られることを十分に分かっていた上での発言なのでしょう。後に、重門は父ほどの名を残しませんでしたが、関ヶ原の戦いで活躍し、旗本の中でも位の高い部類に属しました。

冴えわたる知謀と人情を併せ持った名軍師・竹中半兵衛

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36年という短い生涯ではありましたが、竹中半兵衛はもはや伝説化した戦国武将です。おそらく創作されたエピソードも多々あるのでしょうが、それが作られたのもまた、彼が有能であり魅力的な人物であったことの証拠だと思います。彼が長生きしていたら、秀吉はどうなったのか、関ヶ原の戦いはどうなったのか…いろいろと想像したくなってしまいますね。

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