平安時代日本の歴史

栄華を極めた平氏が滅んだ「壇ノ浦の戦い」とは?わかりやすく解説

源平最後の戦い、壇ノ浦での両軍の戦い

壇ノ浦の戦いは源氏軍が平氏軍を攻撃することで始まりました。源氏軍は総帥である義経自ら先頭に立って平氏軍と戦います。これに対して平氏軍の司令官である平知盛は義経軍を迎撃。壇ノ浦の戦いが始まりました。

戦いの序盤は平氏軍が優勢。その理由は、平氏軍が関門海峡の潮流を熟知していたからだといわれます。なれない船戦で苦戦する源氏軍に対し、平氏軍は盛んに矢を射かけました。

ところが、潮流が真逆となり源氏軍の背中を押すように流れが変わると、戦局は一変。源氏軍は数の有利を活かして平氏軍を追い立てます。勝敗が決したと感じた平氏一門の武将たちは次々と海に身を投げました。

武将の一人平教経は鬼神のごとき働きで源氏の武士たちを次々に討ち取ります。戦いに敗れても、せめて敵の総帥義経だけでも討ち取りたいと考えた教経は義経を追いかけました。しかし、義経は船から船を飛び移り危機を脱したといいます。これが、義経の「八艘飛び」の由来ですね。

安徳天皇と二位尼が入水!壇ノ浦の戦いの決着

平氏の武将たちが次々と戦死、あるいは海に飛び込む中、源氏の武者たちは安徳天皇のすぐそばまで迫ってきました。この様子を見て清盛の妻で、安徳天皇に付き従って二位尼は最後の決断をします。

二位尼は三種の神器である八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を脇に挟み、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を腰に差して孫である安徳天皇を抱き寄せました。そして、二位尼は安徳天皇に「波の下にも都はございます」といって、安徳天皇もろとも、海に身を投げます。

この様子を見た女官たちの多くが後を追いました。安徳天皇の母である建礼門院も海に身を投げましたが、源氏の武者によって救出されます。こうして、壇ノ浦の決戦は平氏の敗北におわり、関門海峡には数多くの平氏の赤旗が漂いました。

壇ノ浦の戦いの影響

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壇ノ浦の戦いの結果、栄華を誇った平氏は滅亡しました。平氏討伐で活躍した義経は、鎌倉武士団の長である兄の頼朝と対立。最終的には鎌倉幕府を追われて奥州藤原氏のもとに逃れました。頼朝は圧倒的な軍事力で後白河法皇との駆け引きを有利に展開し、着実に武士の政権を築き上げていきます。

源頼朝と源義経の対立激化と奥州征伐

平氏追討で最大の功労者となった義経でしたが、頼朝の許可なく後白河法皇から官位を授かったとして頼朝の怒りを買います。義経の補佐役だった梶原景時は義経の独断専行や功績のひとり占めを批判する報告書を頼朝に提出。義経の立場は危ういものとなっていました。

義経は壇ノ浦で捕らえた平氏の総帥、平宗盛父子を引き連れて鎌倉へと向かいます。ところが、頼朝は義経の鎌倉入りを許しません。義経は頼朝に逆らう意思はないと弁明する「腰越状」を頼朝側近の大江広元に提出しますが、頼朝は許しませんでした。

結局、義経は鎌倉入りできずに京都に戻ります。頼朝と義経の対立は解消されることはなく、やむなく、義経は奥州藤原氏の元へと逃れました。すると頼朝は義経追討を口実に奥州征伐を実行。義経もろとも、奥州藤原氏を滅ぼしました。

諸国に守護・地頭を設置し、鎌倉幕府が事実上誕生

頼朝と義経の対立が激化し義経が京都を追われたころ、頼朝は後白河法皇から諸国に守護地頭を設置する許可を得ます。守護は1国につき一人だけ置かれ、謀反人や殺害人の逮捕を行うとされました。地頭は荘園や公領ごとに置かれ、年貢の徴収や警察権を行使するとされます。

頼朝は、自分を支持する東国の武士たちを守護や地頭に任命し、各地に影響力を拡大させました。守護や地頭を設置した1185年を鎌倉幕府成立の年とみなすこともあります。

頼朝に押されていた後白河法皇は、頼朝が求めていた征夷大将軍への任命だけは拒んでいました。後白河法皇は頼朝をコントロールできなくなくなるのを恐れたのです。しかし、1192年に後白河法皇が死去すると、朝廷は頼朝を征夷大将軍に任命しました。ここに、名実ともに鎌倉幕府が成立しました。

 

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