幕末日本の歴史江戸時代

日本社会を大きく変えた「日米修好通商条約」背景や内容などわかりやすく解説

日本側に関税自主権がない

各国が輸出入品にかける税金を関税といいます。関税は原則、各国が独自に設定しますが、日米修好通商条約では日本側は関税を独自に決める権利は認められません。貿易相手国と相談して関税率を決定すると定められたからです。この方式を協定関税といいました。

関税率は日米修好通商条約の付属である貿易章程で決定され、蒸留酒や醸造酒は35%、船の材料や食料は5%、その他は20%と定められました。関税自主権がないと困ることがあります。それは、安い外国製品が入ってきたときに輸入をストップさせることができないということです。

産業革命を達成し、安価となっていたイギリスの綿織物は日本市場にも大量にもたらされました。その結果、日本国内の綿織物業は圧迫されます。しかし、関税を高くして輸入を減らすことができなかったため、日本の綿織物業は打撃を受けました。

日米修好通商条約が日本に与えた影響とは

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日米修好通商条約の締結は、日本社会に大きな影響を与えました。居留地貿易で外国商人が日本の商品を大量に買ったことから物価が騰貴。外国人への反感を募らせ攘夷運動を勢いづけました。また、条約締結を決めた幕府への反発に対して井伊直弼は大弾圧を決行し、桜田門外の原因を作ってしまいます。井伊の死後、幕府の力は目に見えて衰え、朝廷や雄藩の影響力が増加しました。

物価高騰と攘夷運動の高まり

1859年に貿易章程が定められた後、居留地貿易は盛んになりました。外国商人たちは高く売れる生糸や茶を買い求めます。急増する外国人の需要を満たすため、居留地に出入りする日本商人は全国各地で生糸や茶を買い集めました。

産業革命前の日本では商品の生産量は限られていたため、外国向け商品の買い集めにより生糸や茶の値段は一気に高騰します。それにつられ、他の商品の値段も上がっていきました。幕府は五品江戸廻送令などを出して流通をコントロールしようとしましたが失敗します。

物価の高騰は庶民の生活を直撃しました。加えて、各地で外国人の排斥を訴える攘夷運動が活発化。ハリスの通訳だったヒュースケンが元薩摩藩士に殺害される事件も発生します。やがて攘夷運動は天皇や朝廷を尊重する尊王論と結びつき、討幕の原動力となりました。

安政の大獄と桜田門外の変

日米修好通商条約の締結は反対派の公家や大名か強く批判されました。井伊直弼は幕府に対する批判は断固許さないとして、反対派を弾圧します。

前水戸藩主の徳川斉昭や水戸藩主徳川慶篤、一橋家当主の一橋慶喜(のちの徳川慶喜)、尾張藩主徳川義勝、越前藩主松平慶永、土佐藩主山内豊信、左大臣近衛忠熈、右大臣鷹司輔熈などが隠居・蟄居させられました。さらに、越前藩士橋本左内や長州藩士吉田松陰などは幕府にとらえられ死罪とされます。

井伊直弼のこうした弾圧を安政の大獄といいました。反対派はますます井伊への反感を募らせます。その結果、井伊は桜田門外の変で暗殺されてしまいました。白昼堂々、幕府の要人が襲撃され暗殺されるのは前代未聞のことで幕府権威の低下につながります。

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