安土桃山時代室町時代戦国時代日本の歴史

足利義昭が画策した「信長包囲網」とは?わかりやすく解説

織田包囲網に対する信長の戦術

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この当時に大大名と言われた人たちは、足利義昭の書状にはほとんど反応を示しませんでしたが、織田信長に従う気もなかったと言えます。そのため、京に近い越前の朝倉義景、四国阿波の長宗我部元親なども信長を討とうとはしませんが、信長に従う気もなかったのです。全国各地で、信長に従わない大名、一向宗などの包囲網が作られ、信長と対峙してくるのに対して、信長はそれを個別に撃破していくことにします。

特に、この時代までの武士層は、ほとんどが農村に住み、普段は農作業が中心で、武士として戦いに参加できるのは、農閑期に限られていました。そのために、長期間地元を離れて遠征するということはできなかったのです。

そのために、上杉謙信も毛利輝元、朝倉義景、北条氏、武田信玄も上洛には動くことはできなかったと言えます。

家臣団を農村から切り離した_いつでも戦える軍団の編成

一方、いかに信長と言えども、兵力には限りがありました。そこで、大大名たちが地元を離れることができないのに対して、信長は大きな武士層の改革をおこないます。すなわち、武士層を農村から切り離し、自分の城下町である岐阜に家臣たちの屋敷を構えさせたのです。楽市楽座などの商業面における改革はよく知られていますが、それよりも武士を農村から切り離し、武士団を再編成した信長の改革は目を見張るものがありました。

武士たちが農村から切り離されたことによって、家臣団を各地に分散して遠征、常駐させることができ、信長包囲網に対抗させることができたのです。大大名たちとは逆に、農閑期には守りに徹して、農耕期に攻め込む戦術が可能になりました。関東には滝川一益(かずます)、上杉には柴田勝家、佐々成政(さっさなりまさ)、前田利家、中国の毛利氏一族には羽柴秀吉、四国には丹羽長秀などの織田家重臣が派遣されたのです。

近代兵器(種子島など)の採用

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織田信長の優れたところは、新しい兵器を躊躇なく取り入れたことでした。ポルトガル人によって日本に持ち込まれた種子島と呼ばれた火縄銃をいち早く取り入れ、スペイン人、ポルトガル人などの日本との交易も認め、キリスト教の布教も許したのです。

キリスト教の布教を認めた背景には、本願寺派、延暦寺など仏教勢力の政治への介入と僧侶たちの風紀の乱れがあり、信長に従わない仏教勢に対しては厳しく対抗しました。

強力な指導力は信長の恐怖支配から

信長軍団が強さを発揮した背景には、強力な信長の指導力がありました。自らをカリスマ化して、有無を言わさぬ支配力は、恐怖政治とも言える決断力を秘めていたのです。子供の頃からの家臣であった佐久間信盛を無能扱いして追放しています。また、「鳴かぬなら殺してしまえ、ホトトギス」という句に見られる厳しさのある信長の命令は、家臣団に有無を言わせず、恐怖を与えていたのです。その結果、明智光秀の謀反を誘発した面もありました。

足利義昭の追放で信長の天下は手の届くところまで

織田信長は、足利義昭の度重なる裏切りについに堪忍袋の緒が切れて、義昭を京都から追放し、室町幕府は正式に終わりました。長い戦国時代を生き抜いてきた室町幕府でしたが、ついに滅んだのです。足利将軍は、応仁の乱後から実質的に権力を持たない傀儡将軍ではあったものの、100年以上にわたって武家の頭領としての征夷大将軍の地位を維持したと言えます。

その足利将軍を追放した信長の威光は一段と高まったのです。それ以前に、信長を裏切った浅井長政と朝倉義景を姉川の戦いで滅ぼしますが、彼らをかくまったのが比叡山延暦寺でした。信長は家臣たちに比叡山の焼き討ちを命じたのです。さらに、安土城を築城し、天下布武を掲げて、石山本願寺を征伐し、家臣の武将たちを各地に派遣して天下も手の届くところまで来ていました。

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