倭国は日本のどこにあったのか
当時の日本列島には大和朝廷があったものの、それが列島全土を支配していたとは考えにくいのです。東は関東付近までは古墳時代の前方後円墳があり、中国地方にも見られます。しかし、九州には古い時代の前方後円墳はほとんどありません。倭建命(ヤマトタケルノミコト)の時代には、九州勢力平定の話が記されていますが、九州には大和朝廷に服しない勢力がいたことを示しているだけです。
6世紀前半には、九州で磐井の乱(いわいのらん)が生じたと日本書紀に記されていますが、これもやはり九州に大和朝廷とは違う勢力がいたことを示しています。そのような九州の別の勢力が倭国として中国王朝に冊封されていた可能性は大きいと言えるのです。
6世紀以降の日本書紀における大和朝廷の変化
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6世紀後半になると、日本書紀にも朝鮮半島との関わりが唐突に出てきます。日本(倭)に仏教を伝えたのは百済と書かれているのです。それ以前にはほとんど関わりがなかった朝鮮半島との関係が、突然書かれるようになりました。それはちょうど、磐井の乱の後からであり、任那日本府も同様に6世紀に突然出てきます。すなわち、九州勢力を磐井の乱を平定したことによって、九州は大和朝廷の支配下に組み入れられたと言えるのです。
そして、九州勢力が持っていた朝鮮半島との関わりを大和朝廷が引き継いだのではないかと考えられます。それまで、大和朝廷に帰属していたのは、吉備などの中国地方までであり、勢力圏とはなっていなかった可能性は高いのです。中国の史書でもこの頃から倭国ではなく、日本という国名表現になっています。
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6世紀以降の大和朝廷と朝鮮半島との関係
磐井の乱後から、大和朝廷は百済との関係を持つようになり、仏教の伝来にもつながったと考えられるのです。百済との関係は新たに結ばれ、高句麗からも僧慧慈(えじ)が日本に来て聖徳太子に仏教への深い帰依を勧めています。そのため、百済や高句麗と対立していた新羅との対立も生じたと言えるでしょう。その中で聖徳太子は新羅を討とうとしていたのです。
同時に、百済とは日本に王子が派遣されるなど、関係強化が図られ、友好関係が生まれました。
朝鮮半島における三国時代の終焉
しかし、7世紀中頃になると、新羅は唐との関係を強化し、特に善徳女王に重用された金春秋は王になると唐の冊封の下に入ってまでも、三国の統一の野望を持ちます。そして、ついに高句麗と百済を滅ぼして朝鮮半島を統一したのです。
中国本土でも、異民族支配による五胡十六国の混乱の時代が隋の煬帝によって統一されました。さらにその隋を漢民族の皇帝になった李世民(リセイミン)の唐が制して、東アジア最大の大国として安定した時代に入っていたのです。唐の冊封に入ったことは新羅の金春秋に先見の明があったと言えます。金春秋は属国になったことで批判もありますが、そうでなければ、恐らく朝鮮半島は唐によって征服されていた可能性もあったのです。
いずれにしても、朝鮮半島は新羅によって統一されたものの、百済には旧百済の残存勢力がおり、新羅にとってはそれを抑える必要がありました。
百済の王子の要請によって大和朝廷の天智天皇は派兵を決断
百済が660年に滅ぼされると、百済の残存勢力は、日本にいた百済の扶余豊璋王子を百済王として擁立して百済再興を画策します。扶余豊璋王子も帰国を強く願い、すでに天皇位に就いていませんでしたが、政権を握っていた中大兄皇子に懇願したのです。日本にとっても百済があれば、新羅や唐が日本列島に手を出してくることはないとの判断で、中大兄皇子は、朝鮮半島に兵を出して百済を再興させようと決断しました。