白村江の戦いの結果はどうなった
603年日本軍の船団は白村江の河口に到着しましたが、時すでに遅く、百済の残存勢力は討伐されていました。唐と新羅の連合軍は、白村江の河口に大船団を配置して、日本の船団を待ち伏せしていたのです。その結果、何も知らない日本船団は壊滅させられました。この出来事は、派遣した中大兄皇子をはじめとした大和朝廷に衝撃を与えます。
白村江の戦いで敗れた大和朝廷の混乱
中大兄皇子は、唐と新羅の連合軍がそのまま日本列島に攻めてくることを恐れて、九州北部の筑紫や今の太宰府などに砦(水城:みずき)を築いたり、関西に山城を構築するとともに、668年には都を瀬戸内海から遠い滋賀の近江大津宮に遷都しました。その際に中大兄皇子はようやく天智天皇として即位したのです。
中大兄皇子は、本来はもっと早く母の斉明天皇が無くなられた661年に即位すべきでした。朝鮮半島の混乱や、それ以前からの妹である間人皇女(ハシヒトノヒメミコ)との同母兄妹での婚姻問題などがあり、国内で批判されたのが原因でした。しかし、即位は遅れていましたが、政権の実権は握っていたのです。
また、それ以外にも唐に遣唐使を派遣して、唐との関係修復に努めています。その結果、唐と新羅は日本に攻めてくることはありませんでした。新羅の目的は三韓の統一であり、日本列島までの興味はなかったのです。唐も海を越えて日本列島まで支配下におさめるメリットは少なく、遣唐使を派遣した日本を歓迎しました。
白村江の戦いのもたらしたもの
白村江の戦いで敗れた日本は、唐の力を再認識させられます。中国文明への改めて憧れが高まり、遣唐使の派遣や、律令制度、計画都市としての都の建設(藤原京、平城京)につながっていったのです。それまでは、豪族たちの律令制に対する抵抗は残っていましたが、戦争に負けたことによってその反対も下火になりました。
大海人皇子(天武天皇)との確執はあったものの、天皇を中心とした律令国家への転換点となったと言えます。
古代最初の国際戦争白村江の戦いは敗北に終わった
日本の最古の海外戦争は惨めな敗北に終わりました。しかし、それによって古来の豪族による支配の時代は終わり、中央集権による律令国家への転換点となったのです。それ以降の日本は、貪欲に中国文明を吸収し、日本独自の文化の構築までつなげていきました。それはちょうど、第二次世界大戦に敗れて一からやり直して世界でも有数の経済大国になった現代と似たものがあります。負けることで得るものが大きくなることもあると知っておくことも必要でしょう。