安土桃山時代日本の歴史

中世から近世への過渡期を担った「豊臣政権」とは?その仕組みを探る

なぜ豊臣政権は短命で終わったのか?

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これだけの大きな財力を誇り、巨大な中央集権政権だった豊臣氏はなぜあっけなく滅んでしまったのでしょうか。そこには一代で栄華を築き上げた豊臣という家の脆さがありました。まさにそれは砂上の楼閣に過ぎなかったのです。

あまりにも貧弱な豊臣家の血脈

いかに秀吉はじめ身内が位階を極め栄達しようとも、一族の繁栄がなければ長続きはしません。豊臣氏の場合あまりにも血脈が貧弱過ぎました。

ちなみに比較対象として徳川家康を例に出してみると、家康の子供は男子だけで10人、親類縁者含めた血族はそれこそ数えきれないくらい存在していました。

かたや秀吉の場合、実子は早世した鶴松を除いて秀頼一人だけ。弟の秀長は先に亡くなり、秀長の嫡男の秀保も朝鮮出兵の際に病死、後継者として指名していた秀次も謀反の疑いで自害させられました。正室おねの甥の小早川秀秋も後継者候補だったのですが、早くから小早川家へ養子に出されています。

こうして見ると、秀吉死後に秀頼を守るべき血族がほとんどいなかったことがわかりますね。秀吉は養子こそ大勢いましたが、最も頼りになるべき血縁者はほとんどいませんでした。

文治派と武断派との大きな溝

これも巷間よくいわれてることですが、石田三成をはじめとする文治派と、加藤清正や福島正則を筆頭とする武断派との諍いが豊臣政権の崩壊を早めたという見方です。

後の徳川幕府では、全ての大名が幕府の強力な統制下にあったので、その種の諍いは発生しませんでしたが、秀吉という重鎮を失った豊臣政権内部では、そういった派閥による争いが表面化し、収拾がつかなかったということが挙げられるでしょう。秀吉がいなくなってもリーダーシップを取れる豊臣直系の人物こそが必要だったはずですが、もうその頃には幼い秀頼を支え、後ろ盾となる人間はいませんでした。そこを家康に巧みに付け込まれ、関ヶ原合戦を契機に豊臣氏の勢力が大幅に削がれてしまったということなのです。

豊臣氏武断派は結果的に勝利はしたものの、豊臣政権の大きな経済的基盤だった蔵入地や鉱山、直轄都市などを全て失う結果となりました。さらに徳川氏によって諸大名の配置を大幅に書き換えられたため、あたかも大坂城を包囲するかのように徳川譜代大名が配置されてしまったのも皮肉な結果となったのです。

今も痕跡が残る豊臣氏の栄華

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大坂夏の陣で豊臣氏は滅ぼされましたが、それでもなお徳川幕府は徹底的に豊臣氏の痕跡すら消し去ろうとしました。豊臣氏大坂城の跡地にわざわざ盛り土をしたうえで、さらに大規模な大坂城を築き、わざわざ葬られていた秀吉を祀っていた豊国神社を取り壊し、旧豊臣系大名を次々に取り潰していきました。しかし、明治になって徳川幕府を倒した新政府が改めて秀吉を顕彰していることもまた皮肉なものですね。しかし時代は移っても、至るところに豊臣氏が存在していた栄華の痕跡を見ることができます。豊臣氏大坂城の石垣駿府城の豊臣時代の天守台大和郡山城の武家屋敷遺構などなど。各地で発掘調査が進んでいますので、機会があれば見てみるのも良いでしょう。豊臣のかつての栄華に触れることができるかも知れません。

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明石則実