安土桃山時代日本の歴史

中世から近世への過渡期を担った「豊臣政権」とは?その仕組みを探る

位人臣を極めることで威令を響かせようとした秀吉

信長や秀吉が登場する以前の戦国時代真っただ中の頃、朝廷は落ちぶれ、亡くなった天皇の葬儀をする費用すらなく、天皇自らが書を売って生計を立てている有様でした。そんな朝廷を救ったのが信長の存在だったのです。世間一般的なイメージとして、信長は古い権威を容赦なく切り捨てるという印象がありますが、そんなことは全然なくて朝廷や足利幕府を積極的に保護し、支援していることが最近の研究からもわかってきています。

秀吉も同様に積極的に朝廷の保護に努め、その見返りとして高い位階を得て政治や大名統制の根拠としていました。従五位下から従三位、正二位から正一位の関白、太政大臣へ至るまで、この間わずか2年。下賤の出身だった者が位人臣を極めた瞬間でした。

実は秀吉、朝廷から征夷大将軍への就任を打診されていたことがあり、この時には断っています。一説によれば関白は藤原氏が代々世襲してきた職であり、秀吉のような者が就任するにはハードルが高かったこと。だからこそ更なる権威を求める秀吉は、あえて関白職を望んだともいわれていますね。

栄達していく豊臣一門

かつて栄華を極めた平氏一門のように、秀吉は身内にも高い位を授けようとしました。後継者と指名した甥の秀次には関白を、弟の秀長には権大納言を、妻のおねや母親のなかにすら従一位を授けました。さらに秀吉の数多い養子たちにもそれぞれ高い位階を授けたのです。そこまでする狙いはどこにあったのか?関白職を世襲しようと考えた秀吉は、豊臣という家を「武家と公家を束ねる存在」として確立していきたかったという思いを持っていました。ゆえに豊臣家は高貴な家格だということを周囲に見せつける必要があったわけです。

ましてや秀吉はじめ妻も母親も、元々は低い身分の出身でしたから、ことさらに「高貴である」ということを知らしめかったのでしょうね。だからこそ【天皇落胤説】を秀吉自らが吹聴したりもしています。皇族の八条宮を猶子にしていることからも、豊臣に真に高貴な血を入れておきたいという思いもあったのかも知れません。

また秀吉は多くの臣下の者に【豊臣姓】【羽柴姓】を、それこそバーゲンセールのように大量に授けています。秀吉自身の思いからすれば、「同じ姓を持つ者同士は同族なわけだから、きっと家を共に盛り立ててくれるはず」という願いがあってのことでしょう。武家に生まれず、実子も持たない秀吉ならではの発想だといえるかも知れません。

中世日本からの脱却~本格的な中央集権国家の確立~

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豊臣政権が「中世と近世の過渡期を担う存在」だといわれているのは、この期を境にして社会に劇的な変化があったからに他なりません。それは豊臣政権が強大な力を持った中央集権国家だったことに起因するのです。この豊臣政権の基盤をステップアップにして幕藩体制を築き上げたのが徳川幕府であり、太平の世の礎ともなったのでした。

中世の古い土地観念を否定する

現在でも使われていますが「一所懸命」という言葉がありますね。これは中世の頃の武士たちが命を懸けて自分の土地を守るという気概に基づいた慣用句です。土地は収入の源であり、先祖伝来のものであり、命にも代えがたいもの。そういった古い観念を否定したのが豊臣政権でした。

織田信長の頃から土地改革は進んでいましたが、まだまだ土地に対する執着心が旺盛な領主が多かった時代。秀吉は後で述べる太閤検地をきっかけにして、そういった執着心を否定していったのです。「土地はあくまで天皇のものであり、大名や武士たちは単に土地を預かっているに過ぎない。」いわば土地は、私有地ではなく公有地だということを高らかに宣言しました。

結果的にどういうことになったのか?天皇の代理人である秀吉自身が、思うままに大名配置を行うことができたのです。平定した九州には、黒田、加藤、小西らの譜代を配置し、徳川を関東へ追いやり、徳川への抑えとして会津に蒲生を置き、交通の大動脈である東海道地域には福島、山内、池田、田中、中村などの子飼い大名を配置、さらには豊臣政権のお膝元である畿内には、石田、増田、前田などの奉行衆を置くことで盤石の態勢を敷くことが可能となりました。

後の徳川幕藩体制における譜代大名の配置図と似通っていることに注目ですね。まさにこの豊臣政権の大名配置をトレースしたものだといえるでしょう。

太閤検地と刀狩り

中世の時代には、租税や年貢は惣村(地縁的結合によって自治をになった農民組織)を通じて領主へ納められることになっていましたが、太閤検地をきっかけにして惣村の役割じたいが崩壊し、荘園制度すら消滅しました。これによって個々の土地の納税者と正しい租税額が決まることとなり、豊臣政権の大きな財政基盤となりました。

必然的に大名自身にも「土地の支配者」という意義が失われ、効率よく税を取り立て、豊臣政権へ奉仕するための官僚へと化していきました。大名がサラリーマン化していくのはちょうどこの頃のことなのです。そのことをよく理解し、構造改革を進めていった石田三成を筆頭とする文治派と、そうでなかった武断派との間に溝が出来ていくのも当たり前のことで、このことが豊臣政権の崩壊を速めたのもまた皮肉なことですね。

また、中世社会に終わりをもたらしたのは刀狩りに負うところも大きいでしょう。かつての戦国大名にとって農兵が大きな戦力でしたし、自立精神が旺盛な惣村にあっては、武力をもって主張を通すということも頻繁に行われていました。また一向一揆との泥沼の戦いを体験していた秀吉にとって、武力を携えた圧倒的な民衆のパワーというものを骨身に沁みて理解していたはずで、中央集権体制を盤石なものにするためには、まず民衆のコントロールというものを何より優先して考えていたはずです。

農民から武器を取り上げて農業生産に集中させること。これが秀吉にとっての狙いでした。

豊臣政権の屋台骨を支えた直轄地

豊臣秀吉といえば、たくさんの黄金を蓄えた大金持ち。というイメージがありますが、まさにその通りで、豊臣政権は【蔵入地(くらいれち)】という直轄地を全国に保有していました。全国約1800万石あるうちの約10%が蔵入地だったといいますから、その収入は莫大なものだったのです。

また佐渡金山石見銀山なども支配下におさめ、これらは豊臣政権の大きな経済的基盤となっていました。さらにそれだけではなく、京都、大坂、堺、博多、長崎などの経済的重要都市をも直轄地としていたため、そこからの収入も大きなものがありました。

秀吉死後、豊臣氏の財力を削ぐために全国の寺社の再建や補修などが行われましたが、いくら湯水のように金を使っても大坂城の金銀がなくなることはなく、大坂の陣終了時には金が2万8千枚、銀が2万4千枚残されていたそうです。

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明石則実