天台宗の高僧のもとで、修行の日々をおくる最澄
802年、桓武天皇は遣唐使の派遣を決定、最澄も短期留学生である還学生に任じられ遣唐使の一員となりました。準備や天候不順などもあって遣唐使船の到着は大幅に遅れ、804年に中国南部の明州に到着します。
中国に到着した最澄は天台山を目指しました。天台山にたどりついた最澄は、天台宗の高僧道邃(どうすい)と行満のもとで天台宗について学びます。修業中、最澄と同行した弟子の義真は多くの人々を救済する大乗菩薩戒を授かりました。
こうして、最澄らは天台宗について直接学ぶという目的を果たすことができました。この時、最澄は天台宗の多くの経典を書写し日本に持ち帰っています。ちなみに、帰国直前、最澄は順暁阿闍梨から密教の教えを学びました。天台宗に密教が含まれるのはこのためです。
天台宗確立のため奔走する最澄。空海と対立したのはどうして?
日本に帰国した最澄は、天台宗を奈良仏教と同格の宗派に育てようと奔走しました。また、中国で流行した密教は日本でも流行の兆しを見せ、密教を修めた空海と交流を深めます。その一方、弟子をめぐる空海との争いや天台宗確立を快く思わない奈良の諸寺院との対立などもありました。帰国後の最澄の動きや最澄死後の延暦寺についてまとめましょう。
天台宗の公認と大乗戒壇の設置
805年、入唐求法の旅から帰った最澄を待っていたのは桓武天皇の病の知らせでした。最澄はすぐさま天皇の病気平癒の祈祷を実施、天皇の回復を願います。祈祷の傍ら、806年、最澄は、天台宗を宗派の一つとして独立させるため、朝廷に働きかけを実行。その結果、奈良の諸寺院に加えて天台宗からも2名の公認僧侶を出すことが許されました。
これにより、天台宗は国によって公認されたといってもよいでしょう。しかし、正式な僧侶となるための戒律である具足戒は奈良で受けなければなりません。最澄は、独自に天台宗にもとづく戒律を比叡山で行いたいと朝廷に請願しましたが、なかなか認められませんでした。奈良の僧侶たちが猛反対したためです。結局、天台宗独自の戒律を授ける大乗戒壇は最澄の死後にようやく認められました。
空海との交流と対立
空海は最澄と同じ船に乗って唐に渡った僧侶です。最澄が1年で帰国する短期留学生だったのに対し、空海は長期留学生として唐に渡ります。空海は唐の都長安で恵果阿闍梨から密教の教えを授かりました。空海は曼荼羅や密教関係の法具の多くを授かり、806年に帰国します。
これは、当初予定の20年に比べ、かなり早い帰国でした。最澄は、予定より早い帰国のため、なかなか入京を許されなかった空海のため、さまざまな便宜を図ります。その甲斐あって、809年、空海は入京を許されました。
以来、最澄は空海から書籍を借りるなど密教の勉強を進めます。しかし、813年、空海のもとに派遣されていた最澄の弟子が最澄の帰山命令を拒否。これにより、二人の関係が悪化。さらに、空海が最澄から依頼された経典の貸し出しを拒否したことから、対立は決定的になったといわれます。
密教の奥義は直接学ぶべきと考える空海は、書物の貸し借りだけで密教を会得しようとする最澄の行動に違和感を覚えたのかもしれませんね。
最澄死後の天台宗と比叡山延暦寺
最澄の死後、比叡山延暦寺は天台宗の総本山として栄えました。以後、延暦寺は北嶺と称され、南都とよばれた奈良の興福寺と並び称されるほどの日本仏教の中心地となります。
しかし、10世紀末に延暦寺の僧侶は二代天台座主の円仁の弟子と三代天台座主の円珍の弟子の2派に分裂。この結果、天台宗は延暦寺を中心とする円仁系の山門派と円珍系の三井寺(園城寺)の寺門派に分かれてしまいました。
時代が下り、平安時代の後期になると比叡山の僧侶は武装化します。武装した僧侶を僧兵といいますが、延暦寺の僧兵は京都の街に押しかけ、朝廷に要求をつきつけるようになりました。
一方、仏教の研究は続けられます。そのため、延暦寺は良源、法然、栄西、慈円、道元、親鸞、日蓮などの高僧を排出。日本の仏教に大きな影響を与えました。延暦寺は仏教でも政治でも奈良仏教をしのぐ存在となったのです。
死ぬ前に、最澄が弟子たちに残した思いとは
822年、伝教大師最澄は最後の時を迎えようとしていました。なくなる少し前、最澄は弟子たちに、自分のために仏をつくることや写経しないよう申し渡しています。そのかわり、自分の志を述べよと伝えました。最澄の志とは全ての人が仏になることができるとする考え方です。多くの人々を救いたいと願った最澄の切なる願いが込められた言葉ですね。
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