室町時代戦国時代日本の歴史

【戦国時代】絶世の美女「お市の方」が歩んだ波乱万丈すぎる人生をわかりやすく解説

夫・長政との今生の別れ

何とか危機を脱した信長は、今度は姉川の戦いにおいて壮絶な戦闘を繰り広げ、浅井・朝倉連合軍を撃破します。もはや彼にとって、長政はにっくき裏切り者でしたから、その怒りは相当なものでした。

姉川の戦いでの勝利をきっかけに、信長は攻勢を強めていきます。天正元(1573)年には朝倉義景を滅ぼし、間髪をいれず浅井にターゲットを定め、本拠地・小谷城(おだにじょう)を包囲したのです。

こうなってはどうすることもできず、長政は自害しました。29歳でした。

お市は、夫との別れを惜しむ間もなく、娘3人と共に救出され、織田家に戻ることになったのです。

兄の死と再婚…そして新たな夫の死出の旅に従う

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織田家の庇護のもとで数年を過ごしたお市ですが、兄・信長の死により頼る先を失ってしまいます。そんな彼女の再婚相手となったのが、織田家の筆頭家老である柴田勝家(しばたかついえ)でした。しかし、豊臣秀吉との権力争いに敗れた勝家は、滅びの道を歩みます。お市は、それに従うことを選んだのでした。

信長の庇護のもとで過ごした穏やかな日々

保護されたお市と娘たちは、兄・織田信包(おだのぶかね)や大叔父・織田信次(おだのぶつぐ)のもとで暮らしていたと言われています。清洲城(愛知県清須市)や守山城(愛知県名古屋市)、岐阜城などで、約9年間を過ごしました。

信長も何かとお市と姪っ子たちの生活を気にかけ、4人が不自由なく暮らせるようにと十分すぎるほどの援助をしていたそうです。

夫・長政はすでにこの世にいませんでしたが、娘たちが成長していく姿を見守ったこの9年間が、お市にとっては人生で最も長い平穏だったのかもしれません。

兄・信長が本能寺の変により死亡

しかし、お市の穏やかな日々は突然破られます。

天正10(1582)年、京都の本能寺に滞在していた織田信長が、家臣の明智光秀に討たれてしまったのです。いわゆる「本能寺の変」ですね。

兄という強力無比な庇護者を失い、お市たちはよりどころを無くしてしまいます。

そして、彼女たちの周囲はにわかに騒がしくなっていきました。

清洲会議で決められた再婚

信長の死により、後継者を決定するための清洲会議(きよすかいぎ)が開かれました。ここでは、信長の孫を推す豊臣秀吉(当時は羽柴)と、信長の三男・信孝(のぶたか)を推す柴田勝家との間で意見が対立します。柴田は筆頭家老という重職を担っていましたが、秀吉の方が一枚上手で、彼に取り込まれた織田家臣たちは軒並み彼の方針を支持したのです。

結果として信長の孫が後継者となり、それを推した秀吉の存在感が際立つことになったのでした。

この会議の中で、お市の身の振り方についても協議されました。そして、彼女は柴田勝家に嫁ぐことに決まったのです。

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