2番目の夫・柴田勝家
柴田勝家は、剛勇で鳴らした織田四天王のひとりで、信長の代には筆頭家老にまでのぼりつめた実力者でした。しかし、お市より25歳も年上だったのです。
なぜ彼にお市が嫁ぐことになったのかについては、様々な説があります。
よく聞かれるのは、色好みの豊臣秀吉がお市に好意を示したが、お市自身がそれを嫌ったというもの。また、勝家もお市の美貌に惹かれていたという説もありますね。
しかし、これら2つの説は俗説にすぎません。もっと現実的な説は、清洲会議で主導権を握れなかった勝家に対し、秀吉が懐柔の意味合いも込めてお市との再婚を仲介したというものです。勝家は筆頭家老という「超」実力者ですから、お市がそこに嫁ぐというのもうなずける話だったわけですね。
北ノ庄城での短い日々
本能寺の変からわずか4ヶ月後という慌ただしさの中、勝家の本拠地・北ノ庄城(福井県福井市)に嫁いだお市。娘たちも一緒でした。
剛毅な勝家は、お市と娘たちを丁重に扱ったといいます。かつての主の妹と姪っ子たちであるわけですから、そうするのも当然の話ですよね。
しかし、この2度目の新婚生活は、たった半年で終わりを告げることとなります。
清洲会議以来、対立してきた勝家と秀吉がついに激突することになったのです。
これが、天正11(1583)年4月に起きた賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでした。
敗れた勝家と運命を共にする
賤ヶ岳の戦いは、当初、勝家方の優勢に思われました。しかし秀吉の巧みな戦術と寝返りなどにより、勝家はみるみるうちに劣勢に追い込まれ、ついに北ノ庄城へと追い詰められてしまいます。
敗色濃厚となり、誰もが死を覚悟する中、お市は勝家に「共にゆく」との意思を示しました。娘たちのことを考えれば、お市は生き延びてしかるべきでしたが、彼女はそうしませんでした。そして、勝家と共に北ノ庄城で果てたのです。37歳でした。
お市の残した娘たちの行く末
戦国一の美女・お市の方は、2番目の夫・柴田勝家と運命を共にしました。しかし、彼女の血を受け継ぐ美貌の娘たちはどうなったのでしょうか。彼女たちのその後と、お市の生存説などについてご紹介していきます。
秀吉に娘を頼んだお市
落城の間際、お市は秀吉に書状を送り、娘たちの保護を頼んでいました。身寄りがなくなる娘たちの将来を案じたためでもあり、織田と浅井の血を残したいという思いもあったためでした。
長女・茶々は秀吉の側室となり、世継ぎとなる秀頼を生み、栄華をきわめます。二女・初は京極高次(きょうごくたかつぐ)の正室となり、大坂の陣では和議の使者をつとめました。
そして三女・江は、最終的に江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)の正室となり、3代将軍家光や後水尾(ごみずのお)天皇の中宮となる和子(かずこ/まさこ)を生みます。この血統が、結果的にお市の血筋を残すことになったのでした。
江戸幕府や天皇にまで血筋を残したお市。彼女の願いは果たされたのです。
生存説がある!?
実は、お市については生存説も伝わっています。
北ノ庄城の落城前夜、彼女は脱出してとある寺に身を隠したそうです。そして、織田家を支援していた豪商・森田家にかくまわれ、そこにいた旧浅井家臣の手引きにより、懐かしい近江へと移りました。その後、やはり家臣のつてによって伊賀(三重県)に移り、そこで余生を過ごして慶長4(1599)年に亡くなったという説があります。
もし本当に生き延びていたならば、娘たちと何らかの接触もあったはずですし、生存説に関しては何とも言えないところですが、ロマンも感じますよね。