上杉謙信・武田信玄との争い
こうして氏康の勝利に終わった河越夜戦。扇谷上杉は当主がいなくなったことによって滅亡。山内上杉の方もなんとか居城である平井城に逃げ切ったものの、これもあっさりと氏康に落とされてしまい当主である上杉憲政は越後の長尾家の方に落ち延びることとなります。
この当時の長尾家の当主は長尾景虎。後に上杉謙信となる男でした。上杉謙信は憲政の依頼を受けて関東に出兵。本拠地である越後から関東に向かい鎌倉を攻略しながら後北条氏の本拠地である小田原城を10万人で包囲。このままいけば降伏しなければいけなくなりますが、この頃になると城下町一体が防衛施設となっており、小田原城は日本一の要塞とも言っていいほど防衛能力が高いものとなっていました。さらに上杉謙信としてもこの頃には武田信玄との川中島の戦いの真っ最中ですしさらには兵士のほとんどが農民なため農作業を優先しなければなりません。
そのため謙信は小田原城を落とすことなく撤退。鎌倉にて関東管領という役職を引き継ぐことになるのですが、なんとか後北条氏は領土を防衛しました。
しかし、一難去ってまた一難。上杉謙信が撤退してから8年後の1569年には武田信玄が関東に侵攻。小田原城を包囲します。しかし、これも小田原城にて徹底抗戦する構えを見せたので信玄は撤退しました。
こうしてなんとか関東を保全した北条氏康。その後氏康は武田信玄の侵攻から2年後に死去。
民衆たちは善政を敷いて小田原城を守った氏康がこの世を去ったことを聞くと領民は泣き崩れたほどだったそうです。
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後北条氏の全盛期と滅亡【北条氏政&北条氏直】
氏康が亡くなるとその跡目は北条氏政に受け継がれていくこととなります。この氏政はよく後北条氏を滅ぼした無能と書かれていることが多いのですが、後北条氏の全盛期を築いたのは実はこの氏政だったのです。
次は北条氏政の行動と小田原征伐についてみていきましょう。
着実な領土拡大
氏康が亡くなると氏政は武田信玄との同盟を締結。関東の大名との戦争に明け暮れる日々を送り着実と領土を広げていきます。
そして1580年に入ると氏政は信長に臣従することを表明。信長は『攻撃する前に臣従すれば本拠地ぐらいなら保証する』という性格を利用して領土保全に走ることとなります。その後は甲州征伐で信長に協力したりしていたのですが、2年後に本能寺の変が起こるとこの臣従を破棄。織田家の家臣であった滝川一益を攻撃して上野(群馬県)を領土としました。
さらに氏政は常陸や下野にも侵攻して領土を奪いとり、1585年には後北条氏の勢力は関東250万石を治める大大名となっていたのでした。
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運命の小田原征伐
後北条氏が関東の大大名となっていた頃中央政府では豊臣秀吉が関白に就任して着実に天下統一に乗り出していました。しかし、氏政はこれが気に入らない。当時の当主はもうすでに北条氏直でしたが、氏政は秀吉と対決するために防御施設を固め始めていきます。
秀吉からしても後北条氏を倒さないことには天下統一とはなりません。そのため秀吉は1589年に後北条氏が真田家の名胡桃城を攻めたことがきっかけとなり、小田原征伐を決意。25万の兵を連れて関東に出征します。氏政は後北条氏の支城ネットワークを使って秀吉に対抗しますが、いかんぜん25万人の兵士にはどうしようもありません。緒戦によって八王子城や岩槻城などの後北条氏の重要な城を落とされていき、小田原城を包囲します。
小田原城にこもった氏政と氏直は秀吉に降伏するかしないかで大揉め。後の世で言うところの小田原評定と呼ばれる会議を3ヶ月間続かせ、最終的には秀吉に降伏することを決意。
秀吉は降伏した後北条氏を取り潰して北条氏政とその弟であった北条氏照に切腹を命令。氏直は徳川家康のとりなしもあってなんとか助命されたものの、高野山に登ることとなり、後北条氏は滅亡したのでした。
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