氏綱の勢力拡大
こうして北条姓を名乗り始めた後北条氏でしたが、氏綱はここから一気に勢力を伸ばし始めます。北条姓を名乗り始めた1521年に小机城という城が後北条氏のものとなったことをきっかけに当時武蔵国の重要拠点であった江戸城を攻略。武蔵国の城を落としながら房総半島にも勢力を拡大。当時古河公方の分派として房総半島で勢力を築いていた小弓公方を第一次国府台合戦によって滅亡させると下総国まで勢力を広げて後北条氏の躍進の基礎を作りました。
後北条氏の支城ネットワーク
後北条氏の特徴の一つに支城によるネットワークが構造されていたことがありました。当時の後北条氏の本拠地は小田原城なんですが、氏綱は自ら陥落させた城を潰すことなく自身の勢力下に収めて各地に代官を置きます。
例えば伊豆国だったら韮山城を本拠地に、武蔵国ならば江戸城や河越城などを本拠地として領国経営をやらせました。そうして氏綱は各城に人材を配置させるとそれを線で結ぶように道路を拡張。後北条氏の領内における流通や輸送をスムーズに行わせるようにして本拠地である小田原は関東の職人や商人が集まる一大商業都市として栄させたのでした。
また、氏綱は最大のプロジェクトとして戦火によって消失したばかりであった鶴岡八幡宮を造営したりします。鶴岡八幡宮はかつて史上初の幕府を開いた源頼朝の氏神様が祀られている武士としたらまさしくメッカのような存在の八幡宮であり、この修復を後北条氏がすることによって関東地方における武家政権は後北条氏が引き継ぐという重要な意志表示にもなりました。
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氏綱の死去と5つの訓戒
こうして後に続く後北条氏の支配体制を確立させた氏綱は1541年に病に冒されるようになります。
氏綱は自分の死期を悟り、後継者を自身の嫡男である氏康に指名。氏康に後北条氏を立派に継いでもらおうと氏綱は後北条氏を盛り立てるように5つの訓戒を残しました。
これは全ての文章を書くととんでもなく長いものとなるのですが、氏綱はそこまでして跡を継ぐ氏康に後北条氏のことを宜しく頼むという気持ちが伝わりますね。
そして、氏綱はこの訓戒を書き終えたのち自分の役目は終わったかのように55歳で亡くなりました。
北条氏綱公御書置(五カ条の訓戒)
・大将から農民までに義を重んじて後世に恥じない行いをしなさい
・武士から農民に至るまで全ての民を大事にしなさい。この世の中にいらない人はいないから
・決して驕ることなくへつらわずに分相応な行動に努めなさい
・とにかく倹約を守りなさい
・勝利はほどほどにしなさい。勝ち続けると驕りが生まれてしまい敵を侮ってしまうから
勝って兜の緒を締めよ。この言葉を忘れてはならないぞ。
相模の獅子と恐れられた3代目【北条氏康】
氏綱の死後、跡継ぎは前々から決まっていた通り北条氏康が継ぐことになりました。日本では3代目が初代と同じぐらい有名であり有能だというイメージがありますが、後北条氏の場合はその例が顕著に現れており、氏康の下後北条氏は一気に発展を遂げることとなります。
次はそんな北条氏康がどんなことを行って行ったのかを見ていきましょう。
後北条氏最大の危機〜河越夜戦〜
氏綱の死後、両上杉を始め関東中の大名がこの死をチャンスと捉えていました。例えばかつて後北条氏の主君であった今川家の当主今川義元は氏綱の死をきっかけに後北条氏が支配していた駿河の領土に侵攻。これは武田晴信(後の武田信玄)が仲介してくれたおかげで駿河の領土は失ったものの仲直りすることに成功します。
しかし、一難去ってまた一難。今度は古河公方を始め、扇谷上杉・山内上杉ら関東の反後北条氏連合軍8万が当時武蔵国の重要拠点となっていた河越城に攻めてくるという知らせが届きます。
もし、8万の軍勢が河越城に攻めてこられてはたまったもんじゃありません。あっさり落城してそのまま後北条氏の本拠地である小田原城に突っ走るのは火を見るよりも明らか。北条氏康は早雲以来最大のピンチに悩まされます。
しかし、氏康は諦めません。当時武勇で知られていた北条綱成を河越城守備に置いたことを根拠に耐えると確信。氏康自身は8千の軍勢で河越城に急行しました。
しかしそれでも8万VS8千では10倍の差があります。そこで氏康は一計を案じました。それが偽の降伏宣言だったのです。これには両上杉始め連合軍は楽勝ムードが漂い始め、ついには戦争なんてすぐ終わるだろうという楽観的なムードが流れていきます。
これを狙っていたかのように氏康は戦争体制ではなくなった連合軍を夜寝静まった頃を狙って急襲。戦争の準備をしていなかった連合軍は大混乱に陥ってしまい、扇谷上杉家の当主が討ち死にしたのを始め連合軍の重臣たちを次々と討ち取り、河越夜戦と呼ばれるこの戦争は氏康の奇跡的な勝利に終わりました。