日本の歴史

日本の歴史に残るイケメンたちを4人厳選・解説~人物像もご紹介~

歴戦の武将にも劣らぬ重成の武勇

木村重成.png
By 不明 – 画像投稿掲示板Gazomaru[1], パブリック・ドメイン, Link

豊臣と徳川とが手切れとなり、大坂冬の陣が始まろうとしていた時のこと。大坂城内へ集まっていた諸将や牢人の中に、ひときわ見目麗しい若武者がいました。彼の名は木村重成。豊臣のあるじ秀頼とは乳兄弟で、小姓の身分から武将へと引き上げられた若者でした。彼が豊臣軍の大将の一人を務めるというのです。

重成はまだ20歳過ぎ。その容姿の端麗さから城の女性たちには人気はありましたが、実戦を経験したこともなく、ましてや兵を率いたこともありませんでした。共に軍勢を率いることになっている歴戦の強者、後藤又兵衛にとっては不安しかありません。しかし、いざ戦いが始まるや又兵衛の心配は杞憂に過ぎなかったのです。

「自分は若年で実戦の経験もないので、ぜひ戦い方を指南してもらいたい。」と、重成は又兵衛とともに、大坂城外の今福で幕府軍と激突。敵をさんざんに打ち破ります。そして真田丸の戦いのおいても勇名を馳せ、その戦いぶりは敵味方から賞賛を浴びたというから、やはり軍事的才能があったのでしょう。大坂冬の陣が終わり、徳川と豊臣の間で和議が結ばれますが、豊臣方の正使は重成が務めました。

和議の血判の際に、徳川家康が指を切って判を押すことに。これを見た重成はこう言い放ちます。「お血が薄うございますな。」これを聞いた徳川の家臣たちは色めき立ちますが、家康は「歳を取ると血も薄くなるとみえる。」と改めて血判したのでした。この重成の落ち着き払った物怖じしない態度に、家康はじめ徳川の者たちは深く感じ入ったそうです。

豊臣に殉じた重成の最期!

冬の陣が終わり、重成には束の間の幸せな時間が訪れます。豊臣家臣、真野豊後の娘【青柳】が彼に一目惚れして正室として迎え入れたのです。純粋な恋愛結婚ですから、当時としては異例のことだったのかも知れません。

しかし周囲の状況は、ほんのわずかな幸せをも飲み込もうとしていました。和議の条件として出された大坂城外堀の埋め立ては、約束を反故にされ、内堀までも埋められてしまい、頼みの大坂城は丸裸となってしまったのです。

慌てた豊臣方は兵を集めはじめ、それを咎めた幕府方が再び諸大名を大動員してくることに。いわゆる大坂夏の陣の始まりで、重成も大将として兵6千を率い、八尾若江方面へ出陣していきました。対するは藤堂高虎の率いる軍勢5千。藤堂勢を奇襲によって打ち破り敗走させると、ホッとする間もなく今度は井伊直孝の軍勢が繰り出してきました。その数1万。我に倍する軍勢を目の当たりにして、連戦で疲れた木村勢には、もはや戦う力は残されてはいませんでした。

それでも重成たちは奮戦し、井伊勢に大損害を与えますが多勢に無勢。ついには多くの傷を負い疲れ果てていたところを井伊家の家臣に討ち取られてしまったのです。重成の首が徳川本陣に届けられた際、彼の頭髪からふくよかな香の香りがしたそうで、「おそらく討ち死にを覚悟して戦いに臨んだのであろう。あっぱれな若武者であることよ。」と称されたとのこと。これは、愛する妻の青柳との最後の別れの際に、兜に香を焚きこんだものといわれていますね。

重成の享年は23歳。大坂城落城後、妊娠していた青柳は子供を産んだあと、重成の一周忌と共に自害して果てたそうです。

最後まで武士よりも武士らしかったラストサムライ【土方歳三】

image by PIXTA / 30358578

新選組「鬼の副長」といえば土方歳三。崩れ去る徳川幕府に殉じて戦い続けた剣士でもありました。彼の生きざまは歴史ファンを引き付けて離しませんし、なにより絶大な人気を誇ってますよね。そんな土方の人間性を探っていきましょう。

武士にあこがれ剣の腕を磨く

土方歳三の人物画はこちら

剣技を磨き、多くの名刀を所有し、新選組でも鬼の副長として恐れられた土方歳三ですが、生まれは武士でもなんでもなく農民の出身だったことをご存知でしょうか?

江戸時代では、剣術を学ぶのは何も武士だけでなく庶民の間でも盛んでした。もっぱら戦いがない時代なので、ケガの元となる木刀などは使用されず、精神修養や鍛錬のために行われることが普通だったのですね。しかし、土方や近藤勇が剣術を磨いた天然理心流はまったくカテゴリーが違うものでした。剣術だけでなく柔術や棍棒術なども用いた総合格闘技のようなもので、より実戦的なものだったのです。だから実際の戦いとなると強かったのですね。

土方は武士に相当なあこがれを持っていた人物だったのでしょう。京都での浪士組募集にいち早く応募していますし、新選組が発足後も、ひたすら幕府のために働いていました。出身の多摩地方が幕府天領だったことも理由の一つだったのかも知れません。いずれにしても武士となり幕臣となることは、彼らの大きな夢だったことでしょう。

北へ北へと戦い続ける土方

京都へ乗り出してから約4年後、土方たちの夢が叶う時がついにやって来ました。新選組が会津藩預かりとなり、ついに念願の幕臣となったのです。しかし、その頃の幕府はといえば、第二次長州征討であっけなく敗北し、そのわずか半年後には鳥羽・伏見の戦いで惨敗するわけなので、ほんの束の間の期間でしかありませんでした。

官軍を迎え撃つため、甲州勝沼で戦いますが、ここでも敗北。土方の戦場は北へ北へと移っていきました。守るべき幕府がもう無くなっているはずなのに、なぜ土方は戦い続けたのか?それはやはり武士としての誇りでしょう。自分を武士身分に引き上げてくれた旧幕府勢力を是が非でも守りたい。その一心だったのではないでしょうか。

戦場は会津へ移り、そこで負けると次は函館へ。そこには最後の剣士としてのプライドが垣間見えてきます。旧幕府勢力の終焉をその目で見ておかなければ。という思いもあったことでしょう。最期は銃弾で倒れることになりますが、その辞世の句には彼の抱いていた思いが伝わってくるのです。

よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東の君やまもらむ

(たとえこの身は北海道の辺境の地で朽ち果てようとも、我が魂は徳川家を守ってみせよう)

ちなみに土方歳三は生涯独身でした。京都では大変にモテたそうで、色々な女性たちと浮名を流したそうですが、実は故郷にフィアンセを残してきたためだともいわれていますね。

次のページを読む
1 2 3
Share:
明石則実