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大坂城の露と消えた誇り高き姫!浅井三姉妹の長女淀殿(茶々)の運命は如何に

3-1義父勝家と母お市の方の死

勝家が越前に帰ると、秀吉は三法師を利用ししたい放題。堪忍袋の緒が切れた勝家は、雪深い越前から出陣しました。信孝も挙兵しました。琵琶湖の近くで起こった賤ヶ岳で戦い敗戦しました。信孝は以前挙兵した時に、二度と逆らわないと、秀吉のもとへ母と娘を人質に出していました。

秀吉は信長の妻のひとりと孫を、簡単に磔にしてしまったのです。周囲は驚いたことでしょう。本能寺の変から一年も経っていないころに、こんなことまでやってのけるほどの力を秀吉は付けていたのです。

敗戦後逃げて帰った勝家は、お市の方と三姉妹に帰るように諭しました。しかし、お市の方は承知せず残りました。戦国一の美女と称されるお市の方は37歳で、夫勝家と共に自害して果てました。茶々たち三姫は秀吉に保護されることになりました。

3-2秀吉の跡継ぎ秀頼誕生

浅井三姉妹を保護した秀吉は、三姫を安土城に住まわせました。本能寺の変の時、安土城の本丸は焼け落ちましたが、二の丸御殿は残っており、ここに住みました。お江は秀吉の命で尾張の豪族佐治一成(さじかずなり)に嫁ぎました。次に、京極高次(きょうごくたかつぐ)のもとに、次女の初が嫁ぎました。もともと、秀吉はお市の方似の美女茶々を側室に迎えることを画策しており、茶々は姫のまま残されました。秀吉は、絶世の美女お市の方に憧れていたといわれています。

しかも、茶々は19歳になっており、嫁に行くには年を取りすぎたといえるでしょう。ひとつ年下の初が、18歳で嫁いだことで、みんなピンときたようです。秀吉が茶々を側室にしようと目論んでいることを。1588年ごろに茶々は秀吉の思い通り側室になりました。嫌だったら自害する方法もあったのですが、側室になったのには浅井家の血筋を絶やしたくないという思いもあったのでしょう。

それに、正室の「ねね」や従姉妹で側室の「松の丸殿」など、だれも秀吉の子を宿さなかったのに、茶々だけが2人の男児を授かれたのか疑問視されていることは有名ですね。秀吉が53歳の時に捨(ひろい・鶴松)が生まれ、病気のため3歳で亡くなりました。その後すぐ秀吉の跡継ぎ秀頼を生んでいます。

4.秀吉の死から淀殿の死まで

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秀吉が亡くなった後、信長の時と同じように、戦が起こりました。東軍と西軍に別れて戦った関ヶ原の戦いです。「泣くまで待とう不如帰」という例えがあるように家康にここまでよく待ったという人もいれば、信長の時の秀吉と同じだと批判する人もいます。

4-1関ヶ原の戦いに大敗

秀吉は慶長3年(1598)8月18日に62歳で亡くなります。秀頼はまだ6歳だったので、秀吉が亡くなる直前に、五大老と五奉行が呼ばれ秀頼への忠誠を誓わせたようです。正室のねねは、剃髪し高台院となり、秀頼と共に伏見城から大坂城西の丸に入りました。豊臣家の実権は、茶々こと淀君が握りました。功績のひとつに高野山の修復などがあります。

五奉行のひとり石田三成など豊臣への忠義を尽くすものと、五大老のひとり徳川家康などが対決を始めたのです。特に、五大老のひとり前田利家が慶長4年(1599)3月に亡くなったことで、関係が悪化しました。慶長5年(1600)に石田三成や大谷吉継らが、家康討伐のために挙兵します。

毛利輝元を総大将とした西軍と徳川家康を総大将とする東軍による、関ヶ原の戦いが起こりました。しかし、西軍は総大将の毛利輝元などが戦に不参加の態度を示し、小早川秀秋(こばやかわひであき)の裏切りなどで、豊臣派が負けます。決戦の後で「淀殿と秀頼は西軍に関与してないと信じている」と、大野治長にいわせたようです。

4-2家康の思惑にまんまと嵌まる茶々

毛利輝元が大坂城を出た後、徳川家康が大坂城に入ります。淀殿は家康に自分の盃を渡し、その後秀頼に与えてくれるよう求めました。家康はこのとき、秀頼の父親代わりになったことを宣言したようです。しかし、関ヶ原敗戦の後、五大老や五奉行が去った豊臣家は領地を減らされ65万石になりました。

家康は豊臣家を滅亡させるために、色々画策し仕掛けてきました。それにお姫育ちの、淀殿は次々とはまって行きます。慶長8年(1603)家康は征夷大将軍に、秀頼は内大臣へと抜擢されました。その上、三姉妹の江の娘で家康の孫千姫(せんひめ)を秀頼のもとに嫁がせます。ひとときの安らぎでした。二条城で、家康が秀頼との面会を求めてきました。

淀殿は秀頼が殺されると直感し猛反対。「秀頼を殺して私も自害する」と言い放ったのです。面会は逃れることができず、加藤清正(かとうきよまさ)の護衛の下で行われました。この後清正は急死。一節によると、家康が毒饅頭を食べさせ毒殺したといわれています。

4-3大坂の陣勃発

慶長9年(1614)に秀吉が作った難攻不落の大坂城が危機に陥ります。大坂冬の陣の始まりです。実は、大坂の陣は2回行われており、冬の陣は淀殿と秀頼の勝利。大河ドラマ『真田丸』の主人公真田幸村の大活躍で、徳川軍をやっつけました。この戦いの途中、淀殿の頭に浮かんだのは、「家康さえ死ねば、全てが上手く行く」というもの。家康も、「自分の目の黒いうちに、豊臣家を滅ぼす」と心に決めていました。

家康が砲弾を大坂城に打ち込みました。淀殿と秀頼夫妻には怪我はなかったものの、淀君のお付きのものが1人落ちてきた天井の下敷きとなり亡くなっています。淀殿は家康に講和を求めました。家康は大坂城の外堀と二の丸の掘を埋めたら講和に応じると使いをよこしたのです。残念なことに掘りがどれだけ重要かを、淀殿は分からず受け入れてしまい大坂城は裸城となってしまいました。大活躍の真田幸村も、休んでいる時に打ち取られるという不幸に見舞われ、2度目の大坂夏の陣で敗北します。

しかも、夏の陣では、台所番が裏切り、城に火を付けました。難攻不落といわれた大坂城は燃え上がり、その火の中で、淀殿(享年49歳)と秀頼(享年23歳)は自害しました。千姫は二人の説得により、家康のもとに送り返されました。本当かは不明ですが、千姫に秀頼の命乞いを頼んでほしいと、淀殿は頼んでの解放だったともいわれています。淀殿と秀頼の死体は見つかっていません。
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