これだけは知っておきたい!日本の歴史のターニングポイント
戦乱から太平へ~近代までのターニングポイント
室町幕府の崩壊から江戸幕府が開かれるまでの期間はわずか3~40年。この間に、数多くの戦国武将がぶつかり合い、時代はめまぐるしく変わっていきました。多くの戦を経て太平の世が訪れ、260年の後、一挙に近代化の波が押し寄せてきます。まさに激動の時代。中世から近代へのターニングポイントについて説明します
天下分け目の大決戦は半日で~関ケ原の戦い
数多くの戦国武将が誕生した戦国時代。戦略をもって運気を引き寄せた豊臣秀吉が、ついに天下統一を果たしました。
しかし秀吉がこの世を去ると、有力大名の徳川家康がじわじわと勢力を伸ばし始めます。秀吉の遺言は、まだ幼い息子の秀頼を中心とした国づくりでしたが、家康は少しずつ他の大名たちを抱き込み、豊臣家を脅かす存在になっていくのです。
豊臣方のトップは秀吉に仕えていた石田三成。家康は目障りですが、秀吉が天下を取ってからは、大名同士の戦は禁じられています。乱暴なことはできません。秀頼を盛り立てるようちょくちょく釘を刺しますが、家康は海千山千で、豊臣方の言うことなどのらりくらりです。
気が気でないのは他の戦国武将たち。豊臣方につくべきか、家康の機嫌をとるべきか、みんな頭を悩ませます。まさに死活問題です。
様々な駆け引きが積もりに積もってついに、慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)、美濃の関ケ原(現在の岐阜県)で火蓋が切られます。石田三成率いる西軍と、家康率いる東軍による、天下分け目の関ケ原の合戦です。
当初は、この戦いは何年も続くのでは、と思われていましたが、実際にはわずか半日ほどで終了。家康の世渡りのうまさが一枚上でした。数で勝る西軍でしたがまとまりがなく、裏切り者が続出。犠牲者は6000人にも及んだと言われています。
この合戦の後、家康は大坂城を落とし、豊臣の世は終焉。江戸に幕府が開かれ、天下泰平の時代が訪れるのです。
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平和になったし学問や芸術でも~江戸幕府
徳川家康が開いた江戸幕府の時代に入ると、人々に戦のない日々が訪れます。
幕府とは「武家による政治組織・機関」のこと。江戸幕府は、鎌倉幕府、室町幕府に次ぐ日本で3つ目の幕府で、開かれてから明治時代に入るまで、およそ260年間続きました。
長続きした理由はいくつか考えられますが、3度目の正直という言葉があるように、江戸幕府は過去の2つの幕府の情報を仕入れて研究していた可能性が高いようです。鎌倉幕府、室町幕府それぞれが崩壊した理由やいきさつ、関連事項を調べ、評価し本質を見極めます。それまでの時代では、過去を振り返り過去に学ぶ余裕などなかったかもしれません。しかし江戸幕府は、失敗や間違いを繰り返さないよう研究を怠りませんでした。
まず必要だったことは、幕府以外の大名に力が偏らないようにすることです。大きな権力を持つ役人を複数設け、権力が一点に集中しないよう目を光らせます。参勤交代などの制度を設けて大名たちにお金を使わせ、謀反など起こさせないようにしたことも特筆すべき点です。
また、徐々に外国船の出入りを制限し、「鎖国」を開始。一般的には1639年にポルトガル船の出入りを禁止した時期から鎖国が始まったとされています。
長い安泰を手に入れるには事前の根回しと水面下での努力が不可欠。ただ力で制覇するのではない、じっくり時間をかけた国づくりが実現した江戸時代は、日本の大きな転換期だったと言えるでしょう。
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