室町時代戦国時代日本の歴史

政略結婚の道具だけではない?意外に質素な戦国時代の姫の生活とは

豊臣軍を震撼させた姫の武勇【甲斐姫】

1590年、豊臣秀吉による関東攻めが始まり、北条方の武将である成田氏長の持ち城【忍城(埼玉県行田市】も2万の大軍に包囲されていました。氏長は小田原城へ籠っているために不在。留守を任されていたのは城代とわずか500ばかりの兵たちのみだったのです。そしてその中に甲斐姫の姿もありました。

ところが城兵の抵抗は思いのほか激しく、攻めあぐねた豊臣軍は水攻めを決行します。まさに浮き城同然となった忍城に満を持して大軍が攻め寄せますが、その時、鎧兜に身を固めた甲斐姫が手勢200ばかりを率いて駆けつけたのです。成田家伝来の名刀浪切を携え、敵陣に向かって突撃していくさまは、まるで阿修羅のよう。自ら幾人もの敵兵を討ち取って持ち口を守り切り、敵味方に武名を轟かせたのでした。

また別の攻め口でも、相手を姫だと侮った敵の武将を、たった一矢で射落とし、豊臣方の兵を恐れおののかせました。

忍城の開城後、甲斐姫の武勇を聞きつけた秀吉は「甲斐姫をぜひ側室にほしい」と懇願。そのおかげもあってか父親の氏長は大名に復帰できたといわれていますね。また一説によれば豊臣家の滅亡後、秀頼の娘だった天秀尼と共に出家し、鎌倉の寺で余生を過ごしたそうなのです。

智略と謀略を駆使したスーパー尼僧【吉岡妙林尼】

1586年、大友氏を圧迫し続けていた島津氏は、ついに大友の本拠、豊後(現在の大分県)へ向けて大攻勢を開始しました。大友の重臣である吉岡統増の居城、鶴崎城へも島津軍は押し寄せます。しかし城主の統増は大友の救援に向かっていて不在。留守を預かっていたのは、すでに出家していた母親の妙林尼でした。

兵もほとんど残っておらず、本来なら降伏するべきところですが、妙林尼はそれを潔しとせず、近隣の農民や女子供をこぞって城内に入れ徹底抗戦に出ます。板や畳を大量に用意させ、それに土をかぶせ落とし穴としました。さらに鉄砲の使い方を教えて農民が戦えるようにしたのです。

島津軍は攻撃を開始するも、巧妙に仕掛けられた罠や鉄砲の餌食となり損害は増すばかり。なんと妙林尼は16度にも渡る攻撃を撃退したというのですから驚きです。あっさりと落とせると考えていた島津軍はアテが外れ、結局は妙林尼と和睦を結ぶことに。

しかし妙林尼の活躍はこれだけでは終わりません。豊臣の援軍が近づきつつあることを察知した彼女は、開城後に酒や肴で島津方をもてなし、仲良くなったふりをすることに。豊臣軍の来援に伴って島津軍は撤退を開始するのですが、妙林尼はこう言います。「島津と仲良くなってしまった以上は大友には残れない。後から合流するから連れていってほしい」

撤退する島津軍は、彼女の言葉で油断して後ろはがら空き。すかさず妙林尼率いる軍勢は襲い掛かります。奇襲を受けて大混乱に陥った島津軍は、名だたる武将が多く討ち死に。結局は大友軍の大勝利に終わったのでした。

妙林尼の武勇は後世に至るまで地元で語り継がれているということです。

城と運命を共にした女軍の妻【鶴姫】

1575年、備中(現在の岡山県)にあった常山城は毛利の大軍に包囲されていました。城主は上野高徳といい、主家とともに毛利を離反した武将です。衆寡敵せず、いよいよ落城の時が近づき、城主の高徳、そしてその3人の子供たちも次々と自害していきます。

妻の鶴姫はそれを見届けたあと、鎧に身を固め、薙刀を持って出陣したのです。「敵を一人も討たないうちに自害するなど口惜しい」と。

鶴姫は女ながらに武勇をもって知られており、侍女たち34人もそれに付き従って敵陣へ突入します。しかし敵は大軍。侍女たちも次々と討たれていき、最後に鶴姫は、敵の大将である乃美宗勝に一騎打ちを挑んだのでした。

しかし宗勝は「女を相手にして戦うことなどできない」と断ります。勝負をあきらめた鶴姫は、自分の菩提を弔ってほしいと託すと、そのまま城中へ引き返し、刀を口にくわえて自害したのでした。

城跡には【女軍の墓】が34基あり、上野高徳と鶴姫の墓ともども手厚く祀られています。現在でも毎年、地元の方が彼女らのために法要を執り行っているのです。

いつの世も女性は強いもの

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家や子孫のために、我が身を犠牲にしていたようなイメージが戦国期の姫にはあるのですが、決してそうではなく、時には強く。時には優しく。家のことを大事にしていたということが様々な文献から明らかになっています。したたかな者しか生き残れなかった戦国時代にあって、女性もまた強くあらねばならない。それは現在の私たちにも同じことが言えるのかも知れませんね。

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明石則実