真珠湾攻撃の背景
真珠湾攻撃が始まる数年前から日本とアメリカの関係は悪化の一途をたどります。中国との戦争を辞めない日本に対し、アメリカは関係国と協調しつつ圧力を加え続けていました。日本はアメリカ・イギリスなどの圧力に対抗するため、日ソ中立条約や三国同盟を締結します。真珠湾攻撃に至る背景についてみてみましょう。
泥沼化した日中戦争
1937年の盧溝橋事件から始まった日中戦争は泥沼の様相を呈していました。開戦半年で日本軍は中国国民政府の首都南京を制圧。しかし、国民政府の指導者蒋介石は遠く内陸の重慶まで逃れ、日本軍に対して抵抗を続けます。
第一次近衛内閣は首都南京を占領しても抵抗を止めない蒋介石との交渉打ち切りを一方的に宣言。蒋介石との講和の可能性がなくなり、戦争の先行きは全く見えなくなりました。
また、長期化する日中戦争を戦い抜くため国家の力を効率よく動員するため国家総動員法を制定。軍の力はますます強くなり、歴代内閣は軍のコントロールができなくなっていきました。
国家予算の多くも戦争に振り向けられます。満州事変のころは30.8%だった軍事予算がどんどん膨張。1937年の日中戦争開戦時には68.9%に、1941年の太平洋戦争開戦時には70.9%まで増加。こうして日本の政策は戦争最優先となり、国民生活は顧みられなくなったのです。
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1930年代後半の国際情勢
日中戦争がはじまるころ、世界は大きく3つの陣営に分かれていました。第一のグループはアメリカ・イギリス・フランスを中心とする国々です。第一次世界大戦の戦勝国が中心で、資本主義・民主主義の体制をとる国々でした。
第二のグループはドイツ・イタリアなどのファシズム体制をとる国々。第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制を打破し、軍事力で勢力拡大を図っていました。ドイツの独裁者ヒトラー、イタリアの独裁者ムッソリーニが権力を掌握します。最後はソビエト連邦。社会主義の国でスターリンが権力を握っていました。
1939年、ドイツは今まで敵対してきたソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結。この動きは世界を驚かせます。日本は中国を支援するアメリカ・イギリスなどに対抗するためファシズム陣営に接近しました。独ソ不可侵条約に驚いたのは日本も同様ですが、外相の松岡洋右は日独伊とソ連の四国で同盟しアメリカに圧力をかけようと考えます。
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第二次世界大戦の始まり
1939年、ドイツはポーランドに宣戦布告。ポーランドを守ることを約束していたイギリスとフランスはドイツに宣戦布告。ついに、第二次世界大戦がはじまりました。ソ連はドイツとの密約に基づきポーランドに出兵。翌年にはバルト三国を併合します。
ポーランドをすぐに制圧したドイツ軍はデンマーク・ノルウェーを占領。さらにオランダ・ベルギーも攻め落とし、フランスへと迫ります。第一次世界大戦の時と異なり、ドイツ軍はフランスの防衛線を一気に突破。首都パリを占領し、1940年7月にフランスを降伏させます。
ドイツ軍の進撃はとどまるところを知りませんでした。ヒトラーは勢いに乗ってイギリス攻略を目指します。しかし、イギリスのチャーチルはドイツに対して徹底抗戦の構えを崩しません。戦局打開を図るヒトラーは攻撃対象を東へ変更しようと考えました。ちょうどそのころ、日本はドイツ・イタリアと三国同盟を結成します。
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激動の1941年
1941年に入ると世界情勢はますます緊迫してきました。イギリス攻略に手間取ったドイツは矛先を東のソ連に向けます。1941年6月、突如としてドイツは独ソ不可侵条約を破棄。独ソ戦の始まりです。
日・独・伊・ソの四国でアメリカに圧力をかけようという松岡外相の目論見は崩れました。それでも、日本は日ソ中立条約の締結に踏み切ります。東南アジアに攻め込むときにソ連に背後から襲われないためでした。
このころ、アメリカの対日圧力は日増しに増加。1941年8月には石油禁輸を発動します。そのうえでアメリカは三国同盟の破棄や満州国の否認など厳しい要求を日本に突きつけるハル=ノートを提示。
日本は野村吉三郎大使を通じて戦争を回避するための日米交渉を行っていましたがハル=ノートを受けて対米交渉打ち切りと開戦を決意します。事態収拾ができなくなった第二次近衛内閣は総辞職。陸軍大臣の東条英機を首相とする新内閣が発足しました。
真珠湾攻撃の経緯
対日石油禁輸で追い詰められた日本はアメリカ・イギリスとの戦争を決意します。しかし、日本とアメリカ・イギリス、特に、アメリカとの戦力差は歴然でした。圧倒的な国力の差を覆すため、アメリカ太平洋艦隊の根拠地である真珠湾への奇襲攻撃が立案されます。真珠湾攻撃の経緯についてみてみましょう。