- 1.平将門の生い立ちって?
- 1-1.桓武天皇の子孫だった
- 1-2.若い頃の将門は?
- 2.平安中期の時代背景
- 2-1.皇族は地方の豪族へ
- 3.平清盛時代に変化した武器
- 3-1.太刀も鎧や兜も進化していた!
- 4.帰国した時何が起きた?
- 4-1.帰国するも…
- 4-2.反乱のきっかけはもうひとつ
- 4-3.将門人々を助ける
- 4-4.全国にまで勇名は広まった
- 5.「平将門の乱」の前兆
- 5-1.朝廷から独立する
- 5-2.「平将門の乱」のきっかけとは?
- 5-3. 大切な弟の存在
- 6. なぜ「平将門の乱」を起こした?
- 6-1.将門の野心
- 6-2.恐れおののく貴族たちの神頼み
- 6-3.自らを「新皇」とした将門
- 6-4.朝廷から”菅原道真のたたり”と恐れられた将門
- 6-5.将門の終焉
- 6-6.将門はこの世に恨みを残した?
- 7.同時期におこったもう一つの乱
- 7-1.「藤原純友の乱」とは?
- 平将門は、隣国の人々からも慕われた庶民のヒーロー
この記事の目次
1.平将門の生い立ちって?
平将門は関東平野を舞台に活躍した平家出身の武将です。当時は、武士という存在はなく、「兵」や「もののけ」と呼ばれていました。平家一族間の領地争いで骨肉の争いを経験した後、政治そっちのけで優雅に暮らす貴族たちに反旗を翻し「平将門の乱」を起すなど、波乱万丈の人生を送りました。そんな、将門の生い立ちを探ってみましょう。
1-1.桓武天皇の子孫だった
「平将門(たいらのまさかど)」の人生については、資料が乏しく詳しいことはわかっておりません。彼は、桓武天皇の5世子孫で平安時代に坂東(現在の関東地方)を本拠とした「兵(つわもの:豪族)」でした。桓武天皇といえば奈良時代に「平城京」から「長岡京」、更に「平安京」へと都を移した天皇です。
将門の祖父「高望王(たかもちおう)」は、「平」という姓を受け役人として京から上総国に国府として赴任し、任期が終わってもこの地に根を下ろしました。将門は、「下総国佐倉(現:千葉県北部)」を拠点としていた鎮守府将軍「平良将」の子で、延喜3(903)年に生まれたようです。祖父は都であくせくしながら鎬を削り出世を目指すより、この豊かな地で国司として暮らしたいと思ったか。
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ちょっと雑学
平将門は学問の神様として知られる「菅原道真」が亡くなった年に生まれたという説があります。道真は都から出された時、都に帰りたいと泣き暮らしたそうですが、将門は田舎暮らしが性に合っていたとか。間逆の人生を送ったようです。
1-2.若い頃の将門は?
若い頃の将門は、坂東の地で農民たちと共に田畑を開墾し、馬を育て朝廷に収める仕事をしながら、自分の領地を守るため兵として戦う訓練もしていたようです。当時は、陸奥や蝦夷(現:東北地方)の、侵略対策が重要でした。
将門は、「鬼のように強い」と噂されており、武士としての才能があったようです。物語などの書籍で将門の人物像を、「身長は7尺あり、全身は鉄のように硬く矢もはね返す」と描いています。この表現からも、将門が桁外れの強さだったことが読み取れますね。
15歳のころ、京の都へ行き、貴族に仕えています。従兄弟の平貞盛は出世するも、将門は天皇を護衛する「滝口の衛士」という中級官人どまりの役人でした。朝廷の暮らしは、窮屈だと嫌っていたとか。
2.平安中期の時代背景
各地で武装した豪族や農民が現れ、朝廷は争いを制圧するために、貴族たちを国司として送り込んでいます。国司たちの中には任期終了後も、土地を離れないものもいました。そして、彼らは、領地のまとめ役になっていくのです。
2-1.皇族は地方の豪族へ
先にご説明した通り、朝廷から姓を貰い地方に飛ばされた皇族たちは、豪族となり後に武士へと変化していきます。実は、源氏も同様です。元皇族でしたが、源姓を与えられ、朝廷の臣下となり権力を伸ばしました。その結果、後の源平合戦へと繋がっていくのです。
「武士」と呼ばれるようになる豪族たちは、馬に乗って戦い始めました。富を得るために戦いを繰り返したり、地方に派遣された国司たちに反抗し攻撃したりやりたい放題。天皇や貴族などの子孫は、家柄のよさからまとめ役になりました。その中のひとりが、今回のキーパーソン「平将門」です。
3.平清盛時代に変化した武器
都から離れた坂東の地は、古くから軍馬の産地として有名です。将門ももちろん軍馬に乗り、大将として大いに活躍しています。将門が拠点とした石井(現:茨城県坂東市岩井付近)には、軍馬に乗せる馬具を作るための製鉄所もあったようです。馬具だけでなく武器も作られています。
3-1.太刀も鎧や兜も進化していた!
私たちが博物館などで見る刀のほとんどは「太刀」ですが、将門以前の刀は真っすぐで反りがありません。真っすぐな刀は、目の前の敵を突き刺すのには好都合ですが、馬に乗って振り下ろして切るのには不向きでした。将門が使ったとされる刀は、反りがある「太刀」です。
平安時代の初期までは、目の前にいる敵を刺す戦い方でした。兵士たちの鎧や兜は、鉄板を組み合わせただけで、十分な役割を果たしています。馬上から矢を射る戦い方が主流となったことで、動きやすさが要求されるようになりました。
この要求に応えるように、鎧や兜も機能的なものに進化しました。将門の鎧や兜は発見されていませんが、現代の歴史家の情報では“最新の大鎧を使っていただろう”といわれています。