「国際連盟」とは?なぜ崩壊した?失敗の要因をわかりやすく解説
- 国際連盟とは何だったのか
- ウィルソンの主張した民族自決は先送りに
- 国際連盟成立のきっかけ_ヨーロッパの火薬庫バルカン半島と世界大戦
- 列強の植民地主義に揺れ動いたバルカン半島の混乱_第一次世界大戦へ
- 第一次世界大戦末期のアメリカ大統領ウィルソンの民族自決論
- 当時の列強による世界平和維持から国際連盟の成立へ
- 勢力均衡から集団安全保障へ
- 国際連盟の特徴と致命的欠陥
- 総会での全会一致が原則_議決ができない!
- 軍事力を持たない国際連盟_実質的な制裁ができなかった
- 国際連盟の崩壊への第一段階_1920年代の国際平和主義と軍縮会議
- 軍縮会議は日本の拡張抑制に米英が画策
- フランス・ベルギーのドイツいじめとナチスの台頭
- アメリカ発の世界恐慌が各国を襲う
- 国際連盟の崩壊へ_1930年代の混乱時代へ
- 満州事変による日本の拡張_軍部の台頭
- リットン調査団と日本の国際連盟脱退
- ヒトラーによるドイツの拡大主義
- 国際連盟の崩壊
- 国際連盟の反省による第二次世界大戦後の国際連合の成立
- 東西冷戦の発生による国連安全保障理事会の無力化
- 地域戦争(紛争)を止められない国際連合
- 国際連盟の反省を活かし、戦争を回避しなければならない現代
この記事の目次
国際連盟とは何だったのか
image by iStockphoto
国際連盟は、第一次世界大戦後の1920年に設立された国際機関でした。現在ある国際連合と同様に戦争の反省から生まれた機関です。1914年から始まった第一次世界大戦は、人類の歴史上初めての世界的な規模での戦争であり、多くの犠牲者が生まれました。
アメリカ合衆国大統領のウィルソン氏は、戦争途中の1918年に発表した「十四か条の平和原則」の中で、戦争の原因を、当時のヨーロッパ列強による植民地戦争に求めたのです。それぞれの植民地が自立して、自分たちで決定権を持つことが必要であり、そのためには世界的な規模で国際平和維持機構が必要であることを主張しました。
そして、第一次世界大戦が終わると、勝利した国々はウィルソンの主張した国際機関の設立に動き、戦争後のベルサイユ興和会議の中で討議され、1920年に正式に設立されたのです。
ウィルソンの主張した民族自決は先送りに
設立された国際連盟は、民族自決については、中途半端に行われ、中東、アフリカ、アジアでは依然として植民地のままのところが多くありました。そして、設立を主張したアメリカ自身が国際連盟に加盟しなかったため、最初から国際連盟は充分な国際平和維持機関とはなることができなかったのです。
それは、1920年代を通して行われた多国間の軍縮会議が、加盟していないアメリカを中心に行われたことでも明らかでした。1920年代は、ベルサイユ体制からワシントン体制に移行したと言われたのです。これは、1921年から行われた一連の多国間の国際調整と軍縮会議をワシントン会議と称していることによります。
国際連盟成立のきっかけ_ヨーロッパの火薬庫バルカン半島と世界大戦
image by iStockphoto
アメリカ大統領のウィルソンが主張した当時の世界は、列強と言われたヨーロッパ、それにアメリカ、アジアのオスマン帝国などが植民地の拡大を目指して凌ぎを削っていたのです。1899年には、スペインとアメリカの戦争によって、中米のカリブ海諸国やフィルピンはスペインの植民地からアメリカの植民地に変わっています。
そして、当時のヨーロッパのバルカン半島については、多くの多民族が暮らしており、彼らは独立を求めていました。しかし、宗主国のオスマン帝国は認めません。そのため、バルカン半島では、独立をめぐる思惑から2度のバルカン戦争が生じています。さらに、それぞれの民族を支持してバルカン半島での利権を狙う、ロシアやドイツ、オーストリアとその拡大を阻止しようとするイギリス、フランスなどが入り乱れて争い、バルカン半島はヨーロッパの火薬庫と言われていたのです。
列強の植民地主義に揺れ動いたバルカン半島の混乱_第一次世界大戦へ
バルカン半島での小競り合いはついにある出来事で火を噴きます。オーストリアの皇太子が、現在のボスニアーヘルツゴビナのサラエボを視察中にセルビア青年によって襲撃を受け、亡くなったのです。これに対して、オーストリアはセルビアに責任と賠償を求めますが、セルビアは拒否をします。ロシアやイギリスなどはセルビアを支持し、ドイツはオーストリアを支持してついに戦争に発展してしまったのです。
第一次世界大戦末期のアメリカ大統領ウィルソンの民族自決論
戦争は続いていましたが、アメリカ大統領のウィルソンは、この戦争は、独立を志向する各植民地の人々の民族自決(独立希望)が招いたものであり、それを調整する国際機関が必要であることを主張したのです。多くの国がその主張に賛同しました。
しかし、アメリカ自身が、カリブ海諸国やフィルピンを植民地にしたばかりです。さらに当時、中国では清王朝が崩壊し、国内が混乱状況になって列強にとっては植民地獲得のチャンスになっていました。進出の遅れていたアメリカも、その下心が見え見えで、実際には民族自決は絵に書いた餅だったのです。さらに、アメリカには、モンロー主義がありました。かつて、フランス革命やナポレオン登場でヨーロッパは混乱に陥っていました。当時のアメリカ大統領モンローは、アメリカはヨーロッパと互いに手を出さないことを宣言していたのです。そして、長くモンロー主義としてアメリカの外交政策を縛っていました。
そのため、アメリカは、第一次世界大戦後のベルサイユ会議には消極的で、結局新たに設立された国際連盟には加盟しなかったのです。
当時の列強による世界平和維持から国際連盟の成立へ
image by iStockphoto
当時の世界の列強の間では、互いに同盟関係を築いて他の同盟との勢力を均衡させることによって国際平和を維持しようとしていました。第二次世界大戦後にも、東西冷戦が生じて、国際連合が出来たものの、東西同盟関係の均衡で平和を維持していたのに似ていたのです。
しかし、結局は、そのような同盟による勢力均衡政策は破綻し、第一次世界大戦に至ってしまいました。
勢力均衡から集団安全保障へ
そのために、第一次世界大戦後のベルサイユ興和会議では、勢力均衡方式による世界平和ではなく、世界のすべての国が参加する集団安全保障体制が模索され、その結果、国際連盟が成立したのです。集団安全保障方式による世界平和の維持は、論議されましたが、ウィルソンが主張した民族自決については、ほとんど論議されません。当時独立を獲得していた国の追認のみで、独立を主張していたアフリか、中東、インド、東南アジアなどの諸民族は独立できませんでした。