世界が破滅直前になった日「キューバ危機」をわかりやすく解説解説
キューバ危機までの序章
第二次世界大戦が終結したのち世界ではソビエト連邦率いる社会主義陣営とアメリカ合衆国率いる資本主義陣営が対立する冷戦という新たな構造が出来上がっていきます。この対立の一番の特徴は何と言っても両陣営共に核兵器という地方一つを吹っ飛ばせる大量殺戮兵器を所持していたこと。冷戦の時代は両陣営共に戦争状態には突入はしないものの、いつどこで戦争のきっかけが起こり、そして核が飛び交うのかわからないという恐怖の時代でもあったのです。
簡単に言えば険悪なムードを漂わせている不良グループの抗争の中にいたいですか?冷戦というのはそういうものでした。
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アメリカとソ連の核開発競争
冷戦の時代は核開発の時代とも言ってもいいほどアメリカとソ連では核兵器の大量生産が進められていきました。なんで核兵器を持つのか不思議でならないと思うかもしれませんが、アメリカとソ連の両陣営の思惑は非常に簡単なもので、要するに舐められたくないのです。
学校を例にしたあげてみましょうか。Aさんは力が強く、さらに学校に凶器にもなるバットを持ち歩いています。その一方でBさんは力は弱く武器になるようなものは持ち合わせていません。もし、この両者の中で喧嘩をするとなればどっちとしたいかという話です。十中八九の人がBさんと答えるはずし、だってそっちの方が反撃されることはありませんから。
さて、話を戻しましょう。アメリカとソ連はそれぞれ舐められたくありませんし、もし戦争となった時に先制攻撃が出来る方が攻めづらくすることができれば均衡していた勢力に優位が出てくるようになります。そのため両陣営とも核開発競争をし始め1948年にソ連が初の核実験を成功させるとアメリカはそれまでの原子爆弾よりも規模や被害を大きくすることが出来る水爆の研究を開始。1952年の水爆実験でビキニ環礁を吹っ飛ばしソ連に威嚇しました。『攻撃は最大の防御』とはよく言ったものですね。これでやめてくれば良いのですが、なかなかそうはならないもようです。
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アメリカとソ連の地理関係
キューバ危機が起こった一つの要因として地理関係というものがあります。いくら核爆弾があってもそれを敵のところに飛ばす飛行機やロケットがなければ意味ありませんからね。しかし、この頃はまだICBMみたいなポンとスイッチ一つ押すだけで太平洋を超えるレベルのロケットは存在しておらず、よくて1000キロいくかどうかのレベルでした。これを踏まえて社会主義陣営と資本主義陣営を見てみましょう。
社会主義陣営のリーダーであるソ連の首都は今のロシアと同じモスクワ。しかし、モスクワからアメリカに飛ばすにはヨーロッパと大西洋を超えるか、太平洋を超えなければいけず、当時のソ連の技術力ではソ連の端にほど近いアラスカが限界でした。一方のアメリカもソ連と同じ状態に…はなりません。資本主義陣営はアメリカだけではなく、ヨーロッパのイギリスやフランスなどの仲間でこの国らも核爆弾を所有していました。さらに資本主義陣営の軍事同盟である北大西洋条約機構(NATO)にはソ連と国境を接しているトルコも参加しており、アメリカはこの土地に核爆弾を設置してソ連を威圧していました。こうしてみるとアメリカの一点優勢なんですが、これから紹介するキューバ危機によってその構造がガラッと変わっていくのです。
キューバ革命とキューバ危機
1950年初め、キューバという大西洋上の島国にとある異変が起きていました。当時、キューバという国はアメリカの保護国というほとんど植民地化していた国としており、その状態は1952年にクーデターによってフルヘンシオ・バティスタが政権を奪取しても変わることはありませんでした。しかし、そんな状態に我慢ならなくなったフィデル・カストロ率いる7月26日運動という革命軍を組織。アルゼンチンで今でも有名なチェ・ゲバラを仲間にし、潜伏先のメキシコからキューバで革命を起こしました。こうして革命を起こしたカストロのこの動きはキューバ内で抑圧されていた国民にも賛同され、首都ハバナに突入し完全に占領。親米のバティスタ政権は崩壊し、革命は達成されました。
アメリカとキューバの対立
こうして革命を達成したカストロ率いる革命軍はアメリカに対して国交の樹立を求め始めます。実はカストロ自身は元々からゴリゴリの共産主義者ではなく、独裁的な政治を行なっていたキューバの人たちを追い出すために共産主義者と手を組んだだけでアメリカと最初から仲が悪というわけではありませんでした。
カストロは革命を達成させると真っ先にアメリカに訪問。首都ワシントンD.C.に向かい、アメリカに友好的であることをアピールしていくのです。しかし、アメリカからするとキューバ革命は共産主義者の革命としか認識されておらず、この頃の『共産主義者はぶっ潰す』と思っていた政府やキューバからの利益を潰された大企業からすれば「カストロ許すまじ」と思っていたため、アメリカはキューバのカストロ政権を認めることはなく、大統領の会談も『ゴルフを優先する』という国としてどうなんだと言いたくなるような見苦しい言い訳をして会談を無くし、あからさまな冷遇をします。
「アメリカがそうするのであるのならこっちにも考えはあるぞ!」このような扱いを受けたカストロは一転反米の立場をとるようになり、アメリカの大企業がほとんど買収していた農地を国有化。さらに国際連合にてアメリカを非難する演説を行うとついにアメリカとキューバは国交断絶。カストロは一気にソ連に近づいていくことになりました。
キューバのソ連への急接近
アメリカはキューバの革命政権を倒すために革命が起きた時にアメリカに亡命した人たちを集めて作られた亡命部隊を使って革命転覆を図ります。しかし、この作戦は失敗。ピッグス湾事件と呼ばれるようになったこの事件はアメリカのキューバに対する認識が変化するようになります。
このアメリカとキューバの対立を一番喜んだのがソ連です。キューバはもう我慢の限界だとしてソ連に一気に急接近。社会主義国家を正式に発表して社会主義陣営に参加し、1962年にソ連とキューバとの間で軍事協定を締結。キューバにソ連はキューバに対して軍事基地を建てて武器を輸出します。ちなみにキューバとアメリカの端であるマイアミまではわずか45キロ。ソ連からすればキューバはアメリカを直接狙えるまさに裏庭みたいなものだったのです。かつて海を越えなければ核攻撃できなかったのに、一気に首都ワシントンやニューヨークなどのアメリカの主要都市を狙えるようになったソ連はキューバに核ミサイルを運び始め、アメリカに威圧をかけていくようになりました。
アメリカの核ミサイルの発見
1962年、アメリカはキューバにアメリカとは関係ない不審な船が出入りしているという情報をキャッチしてキューバ近くを偵察するようになります。最初はアメリカは「キューバに核爆弾?そんなわけあるか」と楽観的な考え方を取っていました。しかし、このアメリカの楽観的な態度を取っている間にキューバには100個の核爆弾が運び込まれており、アメリカの喉元の近くに核爆弾が待機している状態となります。さらに10月に再び偵察した時になんとアメリカはキューバの核ミサイル基地を発見。アメリカの各都市を普通に狙えることができる大量の中距離弾道ミサイルと核爆弾が発見されました。こうなると事情が違う。アメリカはソ連に対して核ミサイルの撤去を警告。こうして世界は核戦争の危機に突入していくことになります。